日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
sakamoto
1575年、信長は、甲斐(かい:今の山梨県)の国の一大勢力、武田信玄の子、武田勝頼(かつより)と対峙します。“長篠の戦い”です。当時“最強”と恐れられていた“武田の騎馬軍”に対して、信長は最新式の武器である火縄銃を大量に用いました。足軽を前線で使う戦法も斬新でした。
この長篠の戦いで勝利を収めた信長は、天下統一のためには経済力も必要だと考え、領地に“楽市・楽座”という制度を打ち出します。それまで商人たちは、「市」で自分の商品を売るとき、寺などに場所代を支払わなければなりませんでした。また、「座」という同業者の団体が商売を独占していたため、許可なく店を出すことはできませんでした。信長はこれらの特権を廃止し、楽市楽座によってだれもが自由に市で商売をすることができるようにしたのです。信長が支配する町は大いににぎわい、武力と経済力を手中に収めた信長は天下統一に向けて邁進していきます。
織田信長は、京都に近い安土に、周囲を圧倒する城を築きました。安土城です。当時、宣教のために滞在していたポルトガル出身のカトリック司祭ルイス・フロイスの記録によれば、7階建てで、一番上には塔が作られ、金や漆がふんだんに使われ、天井や壁には、一流の絵師による絵が描かれていたそうです。信長はこの塔を「天主」と呼んだといわれています。
注意:一般的な天守閣のシュは“守”です。
★さて、世界に目を広げて・・・15世紀にモンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもったオスマン朝トルコがイタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の制海権を手中に収めました。西洋と東洋の中間に位置するトルコは、地中海交易をに高い関税をかけていました。イスラム教徒により迫害されたポルトガルとスペインでは民族主義が盛り上がるとともに強力な国王を中心とした中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立しました。羅針盤が伝わり、造船技術も発達して、新航路を求める機運と技術の一致がポルトガル人とスペイン人を外洋へとかりたてました。スペイン人とポルトガル人は、後退するイスラム勢力を追うように北アフリカ沿岸に進出していきました。
新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行ったのです。
初期の航海は、難破,襲撃,壊血病や疫病感染などで(乗組員の生還率は20%未満)危険極まりないものでした。しかし、一攫千金、早い者勝ちの機運が人々を駆り立てました。さらに、ローマ教皇も海外侵略を強力に後援しました。15世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への布教活動を勧めました。
さて、アメリカ大陸の発見について・・・
バスコダ ガマが世界航路のひとつにアフリカ周りの欧印航路を加えた頃、ジェノヴァ商人のクリストファー・コロンブスは西周りインド航路を開拓しようと、1484年にポルトガル国王に支援を持ちかけて断られます。既にアフリカ航路を開拓しインドまで今一歩に迫っていたからです。ポルトガルに遅れをとっていたスペインが1486年、カスティーリャ女王・イサベルとその夫・フェルナンド5世がコロンブスの計画を採用しました。1492年、旗艦サンタ・マリア号に率いられた船団がバルセロナ港から西に出港し、10月12日、西インド諸島に属するバハマ諸島に到着したコロンブスは、翌年スペインに帰還して西回りインド航路を発見したと宣言しました。しかしコロンブスの航海は期待されたほどの成果をあげなかったことから、コロンブスの能力に疑念を抱いたスペイン王は、植民地で発生した反乱や原住民への虐待を理由にコロンブスを牢獄に繋いだこともありました。1501年、アメリゴ・ヴェスプッチがバハマ諸島が北米大陸の東に位置する島々であることを明らかとすると、コロンブスは詐欺師呼ばわりされ失意のどん底で死去したのです。
さらにスペインは交易品を求めてアメリカ大陸深部に進出すると豊富な金銀に目をつけました。インカやアステカを征服し原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くした。アメリカ航路開拓に遅れをとっていたポルトガルも、1500年、カブラルがブラジルに到達しその地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富も文化も現住民族の尊厳も根こそぎ踏みにじりました。
スペイン王カルロス1世の命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出たマゼランは、1519年8月:セビリャから5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発~1520年10月:南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断~グァム島に立ち寄り、1521年:フィリピン諸島に到着しました。マゼランはフィリピン中部のマクタン島で住民の争いに加担し、同年4月27日に酋長ラプ・ラプによって殺されました。その後は部下エルカーノ率いるビクトリア号1隻が航海をつづけ、1522年にセビリャに帰港し世界周航を果たしました。地球が球体であることを実証しましたが、生還できたのは18名にすぎませんでした。スペインはこの後もメキシコから太平洋を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こします。そのさなか、フィリピンは1571年メキシコを出発したミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となりました。なお、フィリピンの名は1542年、フィリピン諸島を探検したビリャロボスが、当時スペイン王子であったフェリペ(のちのフェリペ2世)にちなみ、これらの諸島を「フィリピナス諸島」と呼んだことに由来します。
ポルトガルやスペインに遅ればせながら、絶対王権を安定させたのがイギリスとフランスとスペインからの独立を果たしたオランダです。
南蛮渡来の品々に直接触れて宣教師の話を聞いた織田信長が、もしもあと10年長生きしていれば日本の歴史は大きく変わったことでしょう。
自分こそが天下を治めるにふさわしい者だと考えるようになった信長の神仏や朝廷の権威をも否定する言動は、旧体制の顰蹙をかうことになります。1582年、信長は、有力な家臣の一人、明智光秀に襲われ、自ら命を絶ちます。本能寺の変です。このとき秀吉は、中国地方を支配する毛利輝元と戦っていました。事件を知った秀吉は、ただちに戦いを終わらせ、京都に向かいます。そしてだれよりも先に、明智光秀を倒しました。これをきっかけに、秀吉は多くの家臣団の中から抜け出し、信長の後継者の地位を手にしました。このとき、秀吉は46歳。信長の志を継いで天下統一をめざす秀吉は、関白という朝廷の高い職につきます。こうすることで、ほかの大名を従えようとしたのです。秀吉は、大名同士が争うことを止めさせる命令を出しました。従わない大名には大軍を差し向けました。まず、九州の島津を降伏させます。そして1590年には、関東の北条を攻め滅ぼし、東北の伊達(だて)氏を服従させました。
さらに、その支配を確かなものにするために、さまざまな政策を行いました。その一つが検地です。全国の田や畑の広さや収穫量などを調べ、地域ごとに異なっていた土地の価値を、米の収穫量で示すことに統一しました。また「検地帳」を作り、どの土地をどの農民が耕し、税を納めるのかをはっきりさせました。当時の検地帳が残っています。米がたくさん獲れるこの田んぼは「上田(じょうでん)」とランク付けされています。広さも記され、この土地を耕し、税を納める人の名も書かれています。さらに秀吉は、刀狩令を出します。農民から武器を取り上げ、農業に専念させるためです。これは同時に、武士と農民を分ける兵農分離の策です。これによって専門の武士集団ができ、のちの身分の区別につながります。朝廷の権威を否定する信長に比べ、秀吉のやり方は「虎の威を借る狐」のように朝廷の権威を利用した政治権力の構築でした。
西暦1600年、岐阜県関ヶ原町で、天下分け目の戦いが行われました。“関ヶ原の戦い”です。戦ったのは、豊臣秀吉の死後、天下をねらう徳川家康が率いる東軍(約7万)と、豊臣政権を守ろうとする石田三成が率いる西軍(約8万)。全国の大名が二分され、天下の行く末を決する“天下分け目の戦い”でした。
日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
sakamoto