日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
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紀元前4世紀ごろ、アジア大陸から稲作が伝わり、やがて本格的な米作りを行う時代が訪れます。この時代を代表する土器が東京の弥生町で発掘されたことから弥生時代と呼んでいます。この時代を代表する遺跡の一つが、佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡です。この遺跡には、当時の集落の様子が再現されています。米作りをする人々,リーダーなど、役割ごとに分かれて住んでいたことがわかります。比較的に小さな家々は、米作りをする人々が住んでいたと思われる場所です。当時の人々は、木でできた農具などを使っていたと考えられています。大型の家からは、鉄製のナイフなど、金属の道具がたくさん見つかっています。
世界史では、青銅器文化の後に鉄器文化が発達するものです。加工しやすい木製の農機より鉄製の鍬が土地を深く耕すことができますし、武器の破壊力を比べれば、鉄器は青銅器に勝りますので、石や木→青銅器→鉄器というのが順当な発達段階で、鉄器文化を持った人種が青銅器文化しか持たなかった人種を滅ぼしてきたといえるでしょう。ところが日本史では、鉄器と青銅器が同時期に現れます。
鉄や青銅で作られた道具は、今から2000年以上前に朝鮮半島から日本に伝わりました。釣り針,鏃(やじり)などさまざまな鉄の道具を作り、人々に与えることができたのは、富と力を持つリーダーでした。吉野ヶ里遺跡に復元された大きな家には村のリーダーが住んでいたと考えられます。一方、ほかの場所には見られない大きな建物の跡も見つかっています。それは祖先や神を祀(まつ)る人が住む場所で、米の豊作などを祈ったと考えられています。さらに、ほかの村との争いに備えていた跡が残っています。濠(ほり)がめぐらされ、その深さは3m以上もあり、簡単には越えられません。まわりは柵(さく)で囲み、見張りを立てて、よそからの侵入を防いでいました。人々はリーダーを中心に、まとまりのある村を作って暮らすようになったのです。
弥生時代の人々がどのように米作りをしていたのかを伝えるものが、福岡県の板付遺跡にあります。深さ3m,幅6mの濠(ほり)に囲まれた集落のそばから、弥生時代の水田の跡が発掘されました。あぜや水路を備えた本格的なものです。水田に残された弥生時代の人の足跡も見つかっています。人々は地面を耕し、新しい水田や水路を作りました。そして、春の田植えから秋の収穫まで、集落の人々はみんなで協力し合っていました。穫れた米は人々で分け合い、余った米は倉庫に蓄えました。
米作りは縄文時代の終わりごろから始まり、弥生時代に本格的に広まったと考えられています。米を保管するために、床を地面から1m以上も高くした建物が作られました。高床式倉庫です。大事な米をねずみから守るために当時の人びとが考え出したのが“ねずみ返し”です。建物を支える柱と倉のあいだに取り付け、ねずみが柱を登ってきても中に入れない仕組みです。
稲作は水や土地などの自然に左右されますので、土地をめぐる争いの時期でもありました。稲作が盛んになるとともに、より力を持ったムラが登場し、さらにまわりのムラを従えて、クニと呼ばれるようになっていきます。「みんなでまとまろう。」という仲良し集団ではありません。武力侵略や征服による支配権の拡大のことを統一といいます。
日本はまだ万葉仮名すらない時代ですから、3世紀から7世紀頃の統一国家成立に向けた動きの研究で大きな役割を果たしているのは中国の記述です。“金印”や“ヒミコ”の話は★の頃の中国の歴史書に記されたものです。
福岡県で江戸時代に発見された金印は、今からおよそ2000年前、「倭(わ)」と呼ばれていた日本にあった100を超えるクニの一つ、「奴国(なのくに)」の王が、漢の皇帝から与えられたものとされています。
クニグニが激しい争いを繰り返していた様子を知る手がかりは、「魏志倭人伝」に見られます。当時の日本には、邪馬台国と呼ばれるクニがありヒミコという女王が1000人の召使いに身のまわりの世話をさせた、と記されています。占いやまじないを行い、天候を予想したり、豊作や戦勝を祈ったりしたと考えられています。しかしこの記述は漢字で2000文字ほどしかなく不十分で、邪馬台国の場所の特定は未だにできていません。
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