日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
sakamoto
今からおよそ80年前。昭和の初めの日本は大不況に見舞われ、企業の倒産が相次ぎ、街は仕事を失った人たちであふれていました。農村でも、農作物の価格の下落や凶作のため、人々は飢えに苦しんでいました。厳しい経済情勢のなか、日本は新しい土地や資源を求めて中国東北部に傀儡政権「満州国」を建設。さらに勢力範囲を広げようと中国の都市を次々と占領し戦争になりました。「日中戦争」です。この戦争は泥沼化し、日本は英米の中国への補給路を断つためにさらにフランス領インドシナに侵攻しました。
こうした日本の動きを見て、アメリカは1941(昭和16)年8月、日本への石油の輸出を禁止します。A.B.C.D.包囲網による経済制裁です。
危機感を募らせた日本は、12月8日、ハワイの真珠湾を奇襲し、石油などの資源を求めて、東南アジアや太平洋の島々に次々と進出していきました。日本から見れば“進出”で、被占領地から見れば“侵略”ということになります。
日米開戦は海外に住む日本人や日系二世の生活も大きく変えました。
東南アジアへ進行する日本軍のスローガンは「大東亜共栄圏」でしたが、欧米の植民地だった東南アジア諸国にとっては支配者の交代にすぎませんでした。最初は勝利を続けていた日本。しかし、1942年の「ミッドウェイ海戦」の敗北を境に、後進を余儀なくされます。
戦争が長期化して拡大した戦地で補給路を断たれた兵隊は悲惨でしたが、国内でも物資が不足し、国民生活は次第に圧迫されていきました。物資の不足は日増しに深刻化して、砂糖,塩,米などは国の決めた量しか買えない「配給」となりました。また、シャツや靴下などの衣料品は、お金で買うことができなくなりました。代わりに、国が各家庭に配った「衣料切符」で交換するようになったのです。衣料切符には点数が書かれ、たとえば12点で長そでシャツ1枚,6点で半そでシャツ1枚というように、決められた点数分の切符と品物を交換しました。やがて、衣料品だけでなく、毛布やタオルといった生活用品も、配られた切符の分しか手に入れることができなくなっていきました。また、人々はアメリカ軍の空襲から身を守るため、防空壕を掘りました。男子は兵隊として戦地に送られて男手が少なかったため、主婦たちが力を合わせました。防空壕は、家の庭や空き地だけでなく、町の通りなどにも作られました。
やがて、大学生までもが戦場に送り出されることになりました。「学徒出陣」です。学徒動員でマニラ(現ミャンミャー)に出征した日本人の体験談にはここからリンクします。
さらに労働力の不足から、1944(昭和19)年には、12歳以上のすべての子どもは兵器工場で働くことが義務付けられました。女子も例外ではありません。男子と同じように労働が課せられたのです。兵器工場に人手を取られるにつれて、食糧を作る人も足りなくなっていきました。そこで国は、小学校の子どもたちにも、空き地などを使って食料の生産に励むよう指示しました。子どもからお年寄りまで、戦争のために働くことになっていったのです。「銃後の守り」や「贅沢は敵だ、欲しがりません勝つまでは」といったスローガンが掲げられ挙国一致体制がしかれました。戦争が進むにつれ、「国民学校」と呼ばれた当時の小学校では、子どもたちに兵隊になるための訓練が行われるようになりました。子どもたちの戦争への参加は、訓練という形で始まったのです。
ラバウルに派遣された日赤の看護婦さんの体験談にはここからリンクします。
1944(昭和19)年、激しくなる空襲から逃れるため、都会の子どもたちを地方に避難させることが始まりました。「集団疎開」です。小学校3年生から6年生の子どもたちが、家族と離れて暮らすことになったのです。疎開先では朝早くから夜寝るまで、勉強はもちろん、農作業や燃料の薪運びなどすべてが集団行動でした。食事も粗末なもので、わずかな米に大根や芋を混ぜて量を増やしました。小学生の子どもまでもが、戦争のために厳しい暮らしに耐えていたのです。
中一国語の「大人になれなかった弟たちに」や、小学部国語の「ちいちゃんのかげおくり」,「ひとつの花」,「いしうすの歌」の時代です。
日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
sakamoto