散華抄
召集令状を
受けて
ラバウル上陸
ココポの勤務
ラバウル患者
療養所
さらば
ラバウル
マニラ仮宿舎
ダバオ
第13陸軍病院
マライバライ
第4野戦病院
リナポ退避
ジャングル
逃避行
先発隊の記録
後発隊の記録
白旗を立て
ブツアン川を
武装解除
参考と出典

1)召集令状を受けて

中国大陸での戦線拡大で従軍看護婦が足りなくなり、日赤は看護婦の教育期間を2年半に短縮(従来は3年)したり、高等小学校を卒業した人に2年間のコース(従来は高等女学校卒業後)を開いていた。

日赤の終了式

女学校卒業後に日赤看護婦養成所に入った私(尾崎)は、昭和18(1943)年2月8日に1ヶ月のくり上げ卒業をして、その10日ほど後に召集令状を手にした。

出発の前日、家の前には旗がいっぱいたっていた。出発は早朝にもかかわらず、近所の人はもちろん、女学校の先生や級友がたくさん見送りにきてくださった。挨拶のための壇も用意されていた。 鍋島家族写真
日赤第376救護班要員として召集された私達は、神戸から広島に向かい、ここで兵庫,新潟,茨城,静岡,滋賀,台湾の6班で乗船を前に広島の護国神社に参拝した。
 
日赤第376救護班要員の氏名と
 殉職したと思われる日
(救護班長2名,甲種救護看護婦20名,
  書記1名,使丁1名)

松田政治

昭和20年6月5日

関口ミエノ

昭和20年8月15日

石岡満子

昭和20年8月17日

木村秀子

昭和20年11月2日

伊勢田貞子

昭和20年9月20日

赤坂艶子

昭和20年9月19日

山本一子

昭和20年8月13日

小林三保子

昭和20年9月14日

奥田かほる

昭和20年9月15日

龍古静江

昭和20年9月14日

片岡公子

昭和20年9月15日

山中こふじ

昭和20年9月15日

筒泉英子

昭和20年10月16日

今出良子

昭和20年10月10日

藤川八重子

昭和20年10月1日

小田美代子

(旧姓:鍋島)

川上サツキ

武山敏枝

(旧姓:尾崎)

白石椰子

(旧姓:斉藤)

横山澄子

(旧姓:贄田)

奥西澄子

牧本カツミ

★班員24名中、日赤の同級生が11名で、ほかは内地の各陸軍病院から選り抜きの上級生だった。

翌日、県知事婦人等の壮行会を受けて神戸駅から広島に向かい、広島で1週間をむなしく過ごした。

昭和18年3月12日:宇品からランチで病院船“瑞穂丸”に乗り込んだ。船倉には足の踏み場もないほど、十字の腕章を巻いた兵隊が乗っていた。夕闇の迫る頃、瑞穂丸は瀬戸内海を西へ向かって出航した。やがて五島列島が見えなくなった頃から波が荒れて船酔いする者がでてきた。夜は豆電球だけの蒸し暑い船倉で、昼は輸送指揮官の命令で縄ばしごを使っての避難訓練の1週間だった。
3月19日:委任統治領のパラオ島に上陸してすぐ南洋神社に詣(もう)でた。そこには内地と同じ袴(はかま)をはいた美しい巫女(みこ)さんがいて社殿が立派なのにおどろいた。日本からの移民の方たちの家には畳が敷かれ、飯台(はんだい)のそばには飯びつが置かれて、内地と同じ様子に不思議な懐かしさを覚えた。その夜はパラオの沖で乗組員一同、甲板(かんぱん:デッキ)に出て南方の紫の夜を楽しみながら演芸会に興じた。
パラオ港を出て二日ほどしたとき全員甲板に集合がかかった。やがて、おもむろに輸送指揮官が「あなた達はこの船でどんなところへ行くかと思っているであろう。シンガポールにあるいはセレベスにと思いをはせていることと思うが、実はそんな華やかな街に行くのではない。青い草原に羊が放し飼いにしてあって、赤い腰巻をした土人のいるラバウルという最前線に行くのだ。君たちは内地出港の際、一週間の広島滞在があったのを思い出して欲しい。このとき軍は、広島でこの救護班は解散させて欲しい、女の身で未開地の最前線派遣は何としても無理で、生命を受けあいかねるからという強い反対を出したところ、日赤本社より軍旗のはためくところ必ず赤十字旗あり、いまさら解散なんてとんでもない、という強い要望で出港となったのだ。だから大変なことだろうと思うが兵隊たちは赤道以南において炎熱と戦いながら君たちの手を一日も早くと待っている。どうか皆さん元気を出してあくまで自分の健康に気をつけてお国のためにつくして欲しい。」と、初めて行く先を告げられた。もちろん私たちは外地に派遣されることを強く希望していたので、これからの未開地での職責と生活に雄心をわかせた。

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