散華抄
召集令状を
受けて
ラバウル上陸
ココポの勤務
ラバウル患者
療養所
さらば
ラバウル
マニラ仮宿舎
ダバオ
第13陸軍病院
マライバライ
第4野戦病院
リナポ退避
ジャングル
逃避行
先発隊の記録
後発隊の記録
白旗を立て
ブツアン川を
武装解除
参考と出典

10)ジャングルの逃避行
昭和20年5月1日:ほのぼのと夜のしらむ頃、地名は判らないが両側の丘のように見える平らかな芝山の続きにうっそうと茂るジャングルの見える所まで到達した。『こんな大勢終結しているところが空襲されればどうなることか』と不安に思いながらもジャングルの入り口に立って少しほっとした。
起伏の激しい土民道を渡りながら、初めの三回ほどは隊貨の運搬に往復した。米一升とモミ一升にはまだ手をつけず、途中で隊と土民が物々交換をしたトウモロコシを焼いたり、油で炒めたりして食べた。行くあての目標もなく数日歩くうちに、山砲のとどろく音や機銃掃射の音がここかしこに響くようになった。
ある川原で宿営したとき、私たちは早速、下着の洗濯にとりかかった。すると、にぶい爆音とともにグライダーのような飛行機が頭上に来た。観測機とも知らずに『あんなちゃちな飛行機に爆弾を積んでいるはずはない』と、のんきに洗濯を続けていると、ヒューと風を切る音とともに10mほど先の川原で迫撃砲が炸裂し、続けて弾がとんできた。私は川に飛び込み死角に入るように岩陰に身を潜めた。関口婦長と松田書記も私のそばに身を伏せた。この衝撃で一時は耳が遠くなった。部隊からは多くの負傷者が出たが、われわれ救護班は全員無事だった。その頃から部隊は統一行動がとれなくなり、女が足手まとい扱いされ始めた。
そしてついに部隊の現地解散が言い渡されてしまった。『こんなことってあるものか。状況のよいときは働けるだけ働かしておいて、今さらほっぽりだすなんて…』と、泣こうにも泣けない気持ちだったが、とにかく、兵隊の歩いた道を進むよりなかった。
22名が団結して落伍者を出すまいと気を配った。ジャングルに入ってからは日付の見当が全然つかなくなっていた。夜になって宿営地にたどり着いては木の枝を利用して天幕を張り、その下の雑草を払って平らにし、枯れ木を集めて塩汁を作り、そして少しずつの米で粥(かゆ)を炊いて夕食にした。このような一日に一回だけの食事も、2ヶ月ほどで米がなくなり、あとは水筒のキャップ1杯のモミをはじけさせて食べた。それが足りずに生のモミを口に入れては、次の日にモミが肛門に詰まって困った。モミも1ヶ月ほどでなくなった。
兵隊はゲリラが開拓した畑に出会うと2日ほど宿営して休息していたので、現地解散が言い渡された後の3ヶ月ほどは、兵隊の跡を根気強く尋ねては、数日遅れで追いついたものだった。ただ、われわれにはその休息がなく、毎日毎日たとえ少しでも歩いた。我々がやっとゲリラの畑にたどりついても残っているのは芋の葉ていど…。それでもあればよいほうで、たいていは裸の山畑。それでも懸命に芋を探した。こんな中でよく芋を探し当てると有名になったのが筒泉だった。「尾崎、貴女は芋を探し出さないからみんなに悪いやろう。これをあげるから自分で掘ったと言ってみんなに出すんやで。」と言ってはそっと芋を手渡してくれたものだった。その友情がありがたく、涙が出て仕方なかった。
第一渡河点という合流地点を渡るときには、その川幅の広さと深さに足がすくんだ。流れは美しく、ところどころに黒い大きな岩が頭を出していた。そこに太いツルとツルがつながれて向こう岸まで二本はられていた。私たちはそのツルにつかまって順番に河に飛び込んだ。背中のリュックがプカプカと浮き上がる。足を川の流れにまかせながらツルを頼りにたぐる。やっとの思いで向こう岸にたどり着く。後には救護班で唯一の男性である松田書記と兵隊たち十名ほど…、となったとき、突然の増水。この奥でスコールでもあったのだろうか。濁流が恐ろしい音をたてて押し寄せて、松田書記をツルとともにのみこむ。私達は声を限りに「書記殿、書記殿」と叫ぶ。関口婦長も石岡婦長も恐ろしいまでに張り詰めた顔で河の面をにらんでいた。松田書記は土佐の海で鍛えた海の男だったが、自然の猛威の前ではなす術もなくリュックの下に頭を沈めたままで私達の目の前を流されて行った。ついに私達は女ばかりの集団になった。
この頃すでに兵隊のあいだでは行き倒れが多数ではじめていた。「看護婦さんでも歩いているのに、なんで歩けないのだろう」と、栄養失調で全身ふくれあがった兵隊が気の根っこでつぶやいていたものだった。それを聞くと、気の毒というより、明日の我が身を見るようで気がめいった。すでに我々も極度の栄養失調で、まず一番年長の関口婦長が下痢を始めた。足はポンポンに腫れ上がってまぶたは垂れ下がり、すでに生きた人の顔ではなかった。救護班は一日のうちに1kmも歩けなくなっていて、本隊からかなり遅れているようだったが、それでも歩くのをやめなかった。周囲に見かける兵隊は明日のわからない落伍者ばかりで心細かったが、草の倒れている方向や足跡をたどりながら一歩でも内地に近づこうという必死の執念が前進させた。宿営地を決めると水を沸かして食べられそうな草や木の根を掘った。水のたまっているところではおたまじゃくしや蛙を、川を渡るときには岩肌に付いたニラという貝を、またはバッタを…と、食べられそうなものは全部食べた。前に通った兵隊が手榴弾で獲った残りですでに綿毛のようなカビにおおわれた20cmほどの川魚を見捨てられずに、次の宿営地まで筒泉が持って行き黒焦げに焼いて食べたこともあった。関口婦長には同級生の今出が当番についてみんなでいたわりながらボツボツ行軍していたのだが、ついに力尽きて「必ずあなたたちを見守ってあげるわね」という言葉を残してこの世を去ってゆかれた。すでに私たちには墓穴を掘る力はなく、その宿営地のかたわらで遺体に木の葉をかぶせておとむらいをした。これから先どうなるか見当もつかない中で「この川(ブツアン川)を下って行けば平野に出られる。」と若手二人(鍋島と尾崎)で希望を語り合っているところへ、10歳ほど年長の山本一子さんがいらして「みんな、私のことを足手まといだと思っていない?」と思いつめたように言われた。山本さんは真面目で元気な室長さんとして皆の尊敬を集めていた人。「だれがそんなこと言ったりするもんですか。元気を出してみなで歩かんと、山本さんらしくないですよ。」と、二人でいろいろと励ましたのだが、ポンポンに腫れた山本さんの体を見ていると、慰めの言葉が上滑りな感じがした。『10年の歳の開きがこうまでも体力の差を生むものなのか』と、気の毒になると同時に『これがいつまで続くかわからない行軍の果ての自分自身の姿』と悲しくなった。

二つの班に分かれて
翌日、石岡婦長が「先発隊と後発隊に別れましょう。元気な人が先発して宿営地を探して天幕を張ったり薪(まき:たき火にする小枝)を集めたりしておきましょう。食糧は後発隊が持って行きますからみんな置いていくように。」と言い出し、賛成も反対もないまま、そのように行動することになった。
出発直前、山本さんのリュックときちんとそろえられた靴に気づき、前日の山本さんを知っている鍋島と私は必死に大声を上げて呼んでみたが返事がない。とにかく後発隊で山本さんを探すことになり、二つの班に分かれた。

先発隊の記録