散華抄
召集令状を
受けて
ラバウル上陸
ココポの勤務
ラバウル患者
療養所
さらば
ラバウル
マニラ仮宿舎
ダバオ
第13陸軍病院
マライバライ
第4野戦病院
リナポ退避
ジャングル
逃避行
先発隊の記録
後発隊の記録
白旗を立て
ブツアン川を
武装解除
参考と出典

11)先発隊12名(尾崎)の記録
「食糧は後発隊が持って行きます」という言葉に、私も水筒に入れた塩を婦長の前に持って行った。班の食糧と言っても、一まとめにして小さな風呂敷包みが一つだった。夕方にはまた一緒になれることを信じて、赤坂さんを頭に私達12名は何の不安もなく全てを後発に託した。しかし、ジャングルはそんなに甘くはなかった。一つの曲がり角を違えても終わりである。
行っても行ってもあてどのない湿地帯が続く。12人は日に何度か川を渡りながら毎日毎日歩いた。下半身はいつもずぶ濡れである。排尿は川を渡るときにそのまま流していた。
どうせ死ぬのならと平野に活路を求めるように引き返してくる兵隊と出合うこともあったが、私達にその勇気はなかった。
9月頃、極度の栄養失調でどこの隊もほとんで全滅しているようで兵隊と会うこともほとんどなくなった。白骨化した軍服姿がゴロゴロと転がっているだけである。無理な行軍をしないわれわれはそれでも9月の初めまで12名全員がそろっていたが、一日に100mほど進むのがやっとという体力になっていた。その頃から最年長の伊勢田さんの様子が変になっていた。
ある日、偶然なことからまだ誰にも荒らされていないマイス(とうもろこし)畑を見つけた。班が横道にそれたという不安はあったが、斜面に植えられたとうもろこしを見て、手を取り合って泣いた。そしてむしゃぶりついて生のままかじった。伊勢田さんが「毛が茶色い程よく熟れてるんや」ポツリポツリ言いながら嬉しそうにかじっておられた姿が今でも目に浮かぶ。私たちはこのゲリラの畑に長くいた気がする。小指くらいのものまで採って芯まで茹でて食べた。出発の時には“これこそ天佑神助(てんゆうしんじょ:神の助け”と、とうもろこしの茎まで折って何本も何本もリュックに詰めた。サトウキビのように茎の汁をしゃぶりながらいつ果てるか分からない旅をまた始めた。
私は次第に視力が乏しくなっていった。もともと弱視・乱視・近視と悪条件の揃っている目である。視力の衰えに不思議はないが、私は視力の衰えが極度に恐ろしかった。眼鏡だけが頼りなのである。眼鏡をかけた屍体を見るとそのまま通り過ぎることはできなかった。分厚そうなレンズであれば外して入れた。リュックの中には眼鏡がゴロゴロしていた。
9月に入った頃から屍(しかばね)の側にころがっている飯盒(はんごう)をのぞくと人間の皮膚らしいものがあったりして、新しい屍はほとんど大腿筋(だいたいきん:ふとももの肉)や臀筋(でんきん:おしりの肉)が切り取られていた。私達はたまに兵隊の声を聞くと木の蔭に身を隠した。人間が恐ろしかった。
誰もかれも内地に帰りたいばっかりに動かない体にムチ打ちながら歩いている。歩いていることだけがただ一つの救いのように…。
9月中旬だったと思う。川原にゲリラの小屋があった。その小屋は2段になっていて上の段に軍医部の曹長と少尉と大尉と上等兵の4人が宿営していた。軍医部と知って我々も安心してその下手に宿営することにした。川から水を汲んで夕餉(ゆうげ)の支度(したく)をしていると、上から兵隊が「オイ看護婦さん、俺達山犬に出合って殺したんだがその肉をおすそ分けしようか?」と言う。その声に飛びつきそうになったが、誰かが「ねチョット、あの兵隊さんたちの体力で山犬が獲れると思って?きっと人間よ。山犬など見かけたことない…」と言った。“私達は例え全員が餓死(がし:飢え死に)しても人の肉を食べるようなことだけはすまいね”と話し合っていた。誰もがひもじく『あるものはなんでも食べたい』と思う中で、自分自身に勝つためにも戦わなければならなかった。「せっかくですけど、お肉は結構です」と断った。どんどん水を沸かす者,木の根を掘る者,蛙を探す者,みんな夢中でやった。
我々はその軍医部の兵隊達と行動を共にすることにした。軍医大尉とその当番,そして軍医少尉と軍医部下士官である。状況のよいときこの大尉を一~二度見かけたことがあり、なかなか気品のある容貌の美しい人であった。その大尉の名前は忘れた。少尉はTと言って歯科の軍医だった。この少尉は少々頭がおかしくなっていたのか無類のお人よしであった。とにかく女ばかりの行軍に4人の男性が加わって心強くなった。
しかし、この頃から上級生が次々に極度の栄養失調になった。伊勢田さんに続いて龍古さんも神経に異常がきていた。ある日のスコールの後、龍古さんがガタガタと震えだした。だれもが全身びしょ濡れである。着替えもない。だが、見かねて龍古さんのリュックをのぞくと、マニラかダバオにいたときに日本から送られてきたのだろう白い毛糸編みのシュミーズのようなものが入っていた。それと着替えさせると龍古さんは笑顔で「これね、お母さんが編んだのよ」とつまんだり引っ張ったりして幼児のように無心に喜んだ。その姿に私は涙が出そうになった。班の中で一番おとなしくつつましく女らしかった龍古さんがこんなことになって、よくここまで耐えてこれたものだと思うと上級生ではあるが本当にいじらしかった。「すぐ乾きますからね…」と、濡れたのを上に着せかけてまた歩いた。
軍医部と行動を共にして半月ほど経った頃。ある朝起きてみたら、大尉の当番だった上等兵が死んでいた。木の枝を数本折って上にかぶせて出発した。死に馴れきっていた。明日は我が身のことかもしれない。死をもはや考えてもみなかったし、死んだ人に同情も薄かった。不思議な心理である。
その夜のこと、宿営地に着くと大尉がが少尉に何か言っている。どこかに行こうと誘っているのはわかるが、はっきりと聞き取れない。曹長は枯木を集めていた。私はとっさに気がまわった。『死んだ当番兵のところへ引き返そうと言っているのではあるまいか』と。1kmもないので男の足ならわけもないところだ。そうだと直感して私はわざと大きな声で、「少尉殿、塩を持っていませんか。私達のはもうすんでしまったのです」と叫んだ。少尉さんは「少しならありますよ」と、側へ寄ってきた。このときとばかり少々おかしくなった少尉さんに、押しころした声で「大尉さんと一緒に行くと承知しないわよ」ときめつけた。私達はそのとき、先に通った兵隊が捨てて行った大きなヘビの皮を持っていた。「ヘビの皮に塩をつけて焼いて、今晩、少尉さんだけに食べさせてあげるから絶対大尉と一緒に行っては駄目よ。わかったわね」と言うと、少尉さんは黙って力なくうなずいた。その夜、火をたいている側に寄って、年より老けた顔で我々を頼りきったような無気力さで一心に塩焼きのヘビの皮を食べておられた少尉の顔が、目をつむれば今でもありありと浮かぶ。夜中になると大尉は一人で出て行った。翌日大尉の帰りを待って出発したのだが、何しに出かけて行ったのか、誰もきかなかった。何かしらこの大尉が底気味悪く不安であった。この頃毎日のように激しいスコールが我々を見舞った。河の岸に沿って歩いて行けば必ず平野に達するという自然の理に従って何回か河を渡りながら前進するのである。龍古さん、小林さんがほとんど歩けないところまできていた。10mほど歩いては小休止、また10m歩いては休止というような状態だった。小休止のとき龍古さんが突然ナイフを出して自害しようとした。私達が必死にナイフを取り上げようとすると、龍古さんも力を出しきって取り返しにくる。ナイフを取り上げようとする者、取り返そうとする者が必死にまつわっているうちに龍古さんは精根つきて泣き出してしまった。私は小林さんと龍古さんのリュックを少しでも軽くしようと、中身を捨てることを思いついた。なぜもう少し早くこのことに気づかなかったのかと悔やまれた。「重いから捨てましょうね」と私が言うと、二人ともうつろな顔でいいとも悪いとも言わずぼんやりしていた。龍古さんは使うこともない大きな注射器のようなものまでリュックに入れていた。本当に入用なものを二~三選んでリュックに入れた。次に小林さんのにとりかかった。人の物ではあるが、不要の持ち物がこの人を苦しめ命を縮めるのだと信じている私は思い切ってポイポイ捨てていった。家を出るときに親が彼女に持たせたという懐剣(かいけん)だけは入れておいた。大事そうにハンカチに包んだ小さな箱が出てきた。小林さんが不意に「それ置いてね」と小声でつぶやくように言われた。振ってみるとカタカタという音がする。私はハッとした。化粧道具が入っていたのである。いつもの私なら「こんなものをこんなときに」と言いかねないのだが、このときばかりはなぜか強く胸にこたえるものがあった。「そうね、これ、ここに置いておきましょうね」とリュックに戻した。大尉達は一足先に出発していた。「これで軽くなたからね。私達ちょっと先に行って宿営地を作っておくから晩までにゆっくり来なさいね。行っても10mか20mだから」と励まして先に出発した。
日が暮れるまでに宿営地の準備がおわったが、二人はなかなか来なかった。私と筒泉はまたもとに引き返した。荷物を捨てた場所から5mほど下った小川で見たものは…小川で末期(まつご)の水を飲んだのであろうか、美しく化粧した小林さんがうつむいて死んでいた。龍古さんも元の場所で眠るように死んでいた。龍古さんは自分の死期を知って一刻も早く自分の手で命を縮めることにより、その恐ろしさから逃避したかったのだと思う。また小林さんは水を欲しがっていたが、私達がアメーバ赤痢にかかればおしまいだと与えなかったので、その欲しい水を心ゆくまで飲み最後の化粧をしたのだと思う。感極まって涙がとめどなく流れた。薄暗くなるジャングルで筒泉と私は木の枝を折って屍にかぶせてその場を去った。
12名が10名になった。その悲しさは何ともいえない。特にこの人たちのクラスの奥田さん、片岡さんが力を落としてガックリしおれておられるのが目立った。伊勢田さんは相変わらず頭がボンヤリしていた。また赤坂さんは胸部疾患があるのであろう。胸を押さえては軽い咳を続けて苦しそうであった。小林さんのリュックから親御さんにと取り出してきた懐剣を片岡さんに渡した。その片岡さんも栄養失調で全身が丸々と腫れていた。「重たいから私が持ちましょう」と言ったが「小林の形見だから…」と言ってきかなかったが仕方がない。
この頃から夜誰もお小用に立たないのに気づいた。私は自分だけの秘密として恥ずかしく思っていたが、皆も起きるのも大儀なほど疲労が重なって、寝たままだとお尻の下が暖かくなって便利だとのこと。川を渡る行軍続きで下半身が乾く暇もないままで、夜中には冷えてお小用に行きたくなるものだが、体力がつきるとそれも億劫(おっくう)になるものである。全くの淡水ばかり飲んでいるのだからお小水も無臭で、皆もこうしてお尻の暖をとったわけである。
小林さんと龍古さんが亡くなって十日は経っていただろうか。その日は岩肌のあらわれた崖のような場所を滑りながらやっと日暮れに川原に出て宿営した。たとえ100mにしても難コースであった。私達は力つきて何をするのも億劫で、やっと名ばかりのテントを川原に張るとそこそこに腰を下ろした。そのとき誰かが伊勢田さんが見えないと言い出した。どこでどう迷ったのであろうか。この日暮れに探しに行く気力もない。一人になった伊勢田さんがどうしているかと思うと探しに戻らねばと思うのだが体が動かなかった。どうせこの体力では私達もあと幾日生きられるか分からないのに…。ここでこのまま水を沸かして飲みながら生きられるまで…。私達は全員「もう歩かん」と言った。大尉がそんなことを言っては困るということを言っていたが誰も耳をかさなかった。男の人には気の毒だが行きたければ軍医部の人だけで行ってもらうより仕方ないと思った。そのとき、川原の向うに「そこにいるのは誰か」と大声で呼ぶ者がある。大半は「黙っとろうよ」とささやいたが、奥西が「私達は第四野戦の看護婦です」と答えた。
「俺達はこの奥5kmの地点にゲリラの田畑を確保して永久自活を決意している。今日は地理偵察に出てきたのだが、これから先はいよいよ湿地帯で身動きが取れなくなる。行軍を続けると死んでしまぞ。君達は何名だ」
「9名ですが、外に軍医部の人が3名おられます」
「俺達は工兵連隊と輜重(しちょう)連隊の生き残りだが隊長に話しておくから来れば何とかなるだろう」と言った。
私達の沈んだ気持ちは吹き飛んだ。それにもまして大尉は喜び「輜重連隊の隊長も工兵連隊の隊長も友人である」と得意気で、私達に対してにわかに命令口調になり、自分は動かずに衰弱しきっている私達を酷使しだした。
翌日は前夜の雨で川は増水していた。「出発を延期しよう」と言ったが大尉は聞かない。「案外浅いとしても流水で川底は見えず、みんな足が弱ってフラフラしているので無理です」と主張した。が大尉は恐ろしい顔で「一日もこんなところでぐずぐずしておれん。それだけ死者を出すばかりだ」と聞き入れず、黙るしかなかった。
昨日は足首がつかる程度の深さだったわずか10mほどの川幅。今日も浅そうだが流れが速い。出発の用意をして大尉が一番に川に入った。ついで私,贄田,筒泉,牧本,山中の順に入った。私は用心深く足を滑らせて前進した。ツエを頼りに、ともすれば流れにさらわれそうになる足をひきずりながら、絶対川底から足を浮かさず必死の思いで対岸にたどりついた。大尉は岸から手を差しのべて「偉い偉い」と言ってくれたが無性に腹立たしかった。川の深さはスネのちょっと上ぐらいだが流れが急であった。私は「下を見ないように。足を宙に浮かさず底を滑らすように小刻みに」と、大声で何回も注意をした。山中に続いて牧本が渡っているとき、どうしたはずみか牧本が足を滑らせた。一番体力もあり背も高く四国の人間で泳ぎも確かなはずだが、さぁっと流された。牧本はリュックを浮き袋代わりに沈ませて、リュックの上にのっかかるように体をあずけて手で水をかきながらこちら岸にたどりついた。が、それに気を奪われたはずみに前後していた山中と片岡さんが流された。あっという間の出来事である。山中は牧本と同じ形で上を向いたまま、片岡さんは顔を下に流されて行った。心配していたとおりで頭の中が空っぽになったような寂しさに襲われた。赤坂さんが必死でこちら岸にたどりついた。手を差しのべると同時に涙がぽろぽろこぼれた。最後に奥田さんが川の三分の一ぐらいまで来て、何とも言えない情けない表情で「助けてー」と言った。しかし皆命がけで渡って来たのである。引き返す勇気の残っている者は一人もいなかった。今から思えばスネぐらいの深さであったが、極度の栄養失調に身の自由を失い、わずか10cmの階段でもはって上がる私達にとって引き返すことは死を意味した。「弱気を出したらいけない、水面を見ないで、足を滑らさないように」など口々に叫びながら何か投げるようなものはないかと岸辺をうろうろ探してみたが適当なものが見つからない。いらいら歩き回っていると、もう一度「助けてぇ」と言う声を残してフラフラ倒れたかと思うとどんどん流されだした。大尉は冷ややかに「仕方がない、出発しよう」と言った。その冷酷さに悲しい怒りをこめて「私ども6名はどうあろうとも岸に沿うて1kmでも2kmでも流れた人を追うて行きます」と言って譲らなかった。大尉も不承不承ながら同意した。
岸に沿って100mほど下ったところで思いがけず伊勢田さんが伏して死んでいた。伊勢田さんは何をどう間違えたのか、川原に下りずに前進して一人で寂しく死んだのだ。
さらに50mほど下ったとき、ジャングルの倒木が川の中ほどまで突き出して水につかったところに、引っ掛かるように奥田さんと片岡さんと山中さんが重なって死んでいるのが見えた。目の前の光景にただ呆然(ぼうぜん)と立ちすくんだ。わずかの変化にも抵抗できないか細い命。その生命の灯はまた消えていった。このもろさは私達自身が一番知っていることだ。瞑目(めいもく)して万感(ばんかん)の想いをおさえた。
ゲリラの畑まで5kmと聞いた道のりを4日もかかって、細い溝のような支流をさかのぼった。途中で小さな白ヘビを見つけた泉筒がツエでめった打ちにして殺したところ、翌日になって泉筒の足,ひざ関節のちょっと下にカサができて赤くはれ上がった。かなり痛いようで泉筒は本気で「白ヘビがたたった」と言っていた。私が「たたりなんて迷信で、そんなことあるはずない」と言うのを、どうしても白ヘビのたたりだと譲らず、まるで精神的魔術にかかっているようだった。
畑を目指して歩き始めて4日目、今まで薄暗いジャングルを歩き続けてきたのに、急に青空の見える広い斜面の山すそに出た。一面の畑で嬉しかった。
その時、聞き覚えのある声が「この畑の物を無断で取ったら銃殺だぞ」と叫んだ。ハッと見上げると、同期生の今出が驚いたことに丸坊主の頭で恐怖の相で立っていた。その夜は山頂に上って宿営し今出を引き取ることにした。「もう心配ないわ、一緒になれてよかったわね」と言うと、「うん」と頭を振りながら急に泣き出した。張りつめていた神経がゆるんだのだろう。無理もないことだと私達も共に泣いた。
今出と石岡婦長は後発隊にはぐれてしまったとのことで、別れた後の様子をボツリボツリ聞くと………
石岡婦長がわずかばかりの風呂敷包みを背中につけていたばかりに、兵隊に狙い撃ちにされ命を落とした。その兵隊がそばにやってきて「ガボガホの鳥と誤って撃ってしまった。悪かった。が、他の看護婦さんたちはおそらく一人も生きて内地に帰ることはないだろう。せめて貴女一人でも内地に帰って報告しなければ何も分からなくなる」となだめたりすかしたりされた。
終日(しゅうじつ)泣き暮らした。挙句の果て、その菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために頭を丸めて、婦長を撃った兵隊と仕方なく行動を共にしてきた。………ということであった。
今出は石岡婦長の髪の毛を肌身につけて持っていた。
赤坂さんは消え入るような力ない咳をひっきりなしにしていた。
あくる日、大尉はここの隊長に会って帰ってくるなり「ここの隊長と俺はマライバライでの友人だ。いずれ畑の一部を我々に与えてくれるだろうから自活できるように計画を立てなければならない。とりあえず収穫作業をすることになるので皆一生懸命働いてくれ。はっきりしておきたいことは、収穫物は3:2、つまり俺たちが3でお前達が2、このようにしてもらいたい」と威猛高(いたけだか)である。3人と7人で3:2とは傍若無人で腹の中は煮えくり返るようだったが、その場はただハイハイと聞いておいた。『このまま大尉の思いのままに酷使されたらこの先どうなるか分からない。少尉さんには気の毒だが、とにかくこの大尉とは別れることが先決だ』と、ここの隊長に直接会うことにした。贄田と奥西と私の3人はその日の内に10mほど下の谷間に陣取っているという隊長のところに行くことを思い立ったが、大尉に知られては困る。しかも大尉は隊長のところへ行く道べりに私達を監視するように宿営していた。私達3人は谷間への道を通らずにターザンさながら、木の根や枝につかまり、つるを滑ってやっとの思いで二段式の小屋に走り寄った。「おっ、どうした」と、気のよさそうな軍曹が声をかけてくれた。(この軍曹が川原で声をかけてくれた人であり、隊長の当番を務めている人だと後で分かった)この声を聞いたとたんに私達は胸が詰まって泣き出してしまった。
久野隊長さんが「どうしたんですか」と優しく尋ねて下さった。私達は一部始終をありのままに説明した。
「軍医部の大尉がどんな変わり方をしたのか分かりました。軍医部と貴女達を離しましょう。」と久野隊長が言われた。まだそんなにお年と思えぬこの隊長さんに、物静かな父を思わせるような、久しいあいだ飢えていた人間愛を見出した。
私達は丁寧にお礼を言って、今度は普通の土民道を登って宿営地に戻った。大尉が道べりの軽天の中から一瞥(いちべつ)をくれただけで無言だったのが不気味だったが、つべこべ言われずに助かった。それから数時間後に軍曹が私たちのところに来て「貴女達は都合により、参謀部の配下にする。参謀の少佐殿がおられるからその指示に従ってくれ」と大声で伝えた。
私達が案内された畑には、参謀部の少佐とその当番と曹長の3名がいた。
畑に着いて二日も経たないうちに「私が死んだら必ず兵隊の目に触れないところに捨てて」と言い残して赤坂さんが最期を迎えた。死んだ後の身を不安にさせるほど兵隊の残虐さが焼きついていたのかと思うと激しい怒りが全身を貫いた。私達はなきがらを軽天に包んで谷深く落とし、その上に稲穂を投げて黙祷(もくとう)をささげた。黄金に波打つ陸稲を目前に死んでいった赤坂さんの心中を察するに無念でならない。
次の日から私達は収穫作業にとりかかった。袋を首からぶらさげ、稲穂をしごいてその中に入れる。日中の暑さを避けて朝夕の涼しい時にモミ採りをして、日中は鉄帽での脱穀作業。これで毎日(1回だけだが)玄米を炊いて食べることができるようになった。しかし、どんな事態が待っているか分からず誰もが食糧の貴重さを肝に銘じていたのでできる限り貯えることにした。マッチも残り少なくなったので、火種を灰にうめて火つぎをしていた。
参謀という人は、このような状況になってもまだ少佐の肩書きを忘れず、忠実な当番兵にかしずかれ、三度の食事の世話から洗濯までなにもせずに丸太小屋の主人公でおさまっていた。参謀部の兵隊と将校が幾百人いたかは知らないが、今はただの3人である。それなのにこの参謀は何を考え、当番兵と軍曹は現実をどう見ているのだろうかと私達は理解に苦しんだ。私達も参謀部の指揮下に入ることで何かしらの便宜を期待したこともあったが、全くの笑止のさただった。私達はその丸太小屋より5mほど下の小さなみぞのそばに軽天を張って宿営し作業に励んだ。
ある日のこと、モミ採りをしているとふいに贄田と筒泉の姿が見えなくなった。不思議に思って探すと、山よりの倒木の陰でかくれるように上半身裸になっている。何事かとよく見るとシラミ取りの最中である。
「まぁ、よけいいるのね。私はちっともかゆくないから大方おらないよ。」と言うと、二人は笑って、「馬鹿なことを。貴女はよく目が見えないから分からんのやろう」と言う。私も同じように裸になってそでやわきのぬい目などを分けてよく見ると、いるいる、ゾッとするほどシラミがじゅずつなぎになってビッシリとくっついていた。
ここは水に不便で一つ山を越えて、むこうの谷間に行かねば水がない。飲み水は当番を決めて交代に飯盒(はんごう)二、三杯くんでくるのが精一杯だったので、洗濯などは十日に一度もできなかった。シラミがわくのも当然だ。今まではシラミなどを苦にする余裕がなかっただけで、おそらくジャングル入りをしてすぐからシラミと一緒に歩いていたのだろう。シラミに気づく幸せを思うとおかしかった。
ジャングルに入って何日たったのか、全く分からなくなっていた。兵隊に何月かを聞いても誰も知らなかった。ただこの畑に来て以来、澄み切った空の日が続いた。軽天2枚の屋根の下に体を寄せ合って寝ながら眺める澄み切ったお月様に、内地の秋がひしひしと思い連なって、内地に帰りたかった。その頃、奥西がよく「尾崎、歌を歌って」と言うので“天然の美”や“故郷の空”などを歌って聞かせた。軍医部や参謀部の兵隊が耳を傾けているのを意識しながら、殺伐と死の放浪の果てに望郷の念やみ難い傷心に月を見る彼らの慰めになり、人間らしい追憶に心が清まるならと祈るような気持ちで大きな声で歌った。ここにたどり着く数日前になって、永い苦労を共にした友人がバタバタと死んでいったことがかえすがえすも口惜しくて悲しかったが、連隊で30名の生き残りと聞いて『あきらめねばならぬこと』と、心に強く言い聞かせるよりすべがなかった。
この頃、周囲のジャングル内で機銃掃射の音を耳にするようになった。畑を取り返そうと土民兵が取り囲んでいるということで、畑の一番高いところに歩哨(ほしょう:見張り)が立つことになった。
立たなくてもよいのは参謀と少尉と大尉だけで、私達も参謀の拳銃を借りて立つことになった。
多分十月頃だったと思う。今出さんが元気を取り戻したように思って私達も安心していたが、急に下痢(げり)を始めた。一日に十何回かの下痢が二、三日続くうちにすっかり憔悴(しょうすい)してしまった。すでにまともな薬などはなく、あるのはクレオソートぐらいだった。そのクレオソートをのませて、薄い粥(かゆ)を炊いて与えるよりしようがなかった。粘血便でアメーバー赤痢に違いなかったが、消毒薬もない今となっては軽天を1枚、溝の向こう側に張って隔離し交代に看護するより方法がなかった。溝を隔てただけで、手を差し出せば届くほどであった。気休めにすぎなかったが、大きな葉っぱを腹の上にのせてさすった。今までに何千万人がこのアメーバー赤痢で命を落としたことか…何の手当てもできず…、アメーバー赤痢はすなわち死を意味した。七、八日の患いで今出さんも世を去った。その数刻前に何か言い遺すことはないかという意味のことをそれとなく聞いた。するとはっきりした口調で「私はね、絶対に死ぬもんか。内地に帰って参事さんに報告するんや。私が報告せんと誰が報告するのや。ほかの者、みんな死んだんやで…」と言った。石岡婦長の死に直面したときに兵隊の吐いた言葉がそのまま今出に課せられて成仏(じょうぶつ:死んで仏になること)できないのではないかと愕然(がくぜん)とした。支部に帰って参事に報告せねばという支えの一念で女一人ジャングルで生き抜いてきた今出に心から頭を下げると共に『安らかに成仏してくれ。誰かは必ず生き残って報告するから』と、心の中で誓ったが言葉には出せなかった。それから間もなく今出は重いうらみを残してこの世を去った。死体を軽天に包み赤坂さんが眠っている谷間に葬った。また一人減ってしまった。けれどもそれだけで終わらなかった。翌日の夕刻、筒泉が腹痛を訴えだした。私は目の前が真っ暗になったようなショックを受け『もう、感染してもかまわない』という気になった。人一倍気持ちの優しい筒泉は精神的にひどくやられ憔悴がめだった。一、二日して、自分から進んで「軽天をでる」と言い出した。仕方なく、今出さんのときと同様にバナナの葉を並べて日陰を作り看護に当たった。今出さんに比べてひどい腹痛を訴え狂い回った。その苦しみを見るだけで、腹をさすってやることしかできない私達も苦しかった。
こうして苦しんでいる最中、米軍機が一機低空を飛んだ。空襲だと思ってとっさに伏せたが、空からは爆弾のかわりに白い紙片がヒラヒラと舞い下りてきた。私達はこんな紙片を見るのは初めてだった。それにはボロボロの服を着て痩せこけた兵隊が銃を構えて島の上に立っている絵があり「日本は8月15日に無条件降伏をしたのです。戦争は終わりました。貴方達だけです。飢えと戦いながら銃を構えて頑張らないで、早く平野に出てきなさい」という意味のことが記されていた。しかし、誰が信じよう、平野におびき寄せる手段としか思えず、その紙片をこなごなに破って捨てた。
筒泉は相変わらず苦しんでいた。湯ばかり沸かして、うんと水分を取らせた。今出よりは体力のあった筒泉はかなりもちこたえたが、それでも目だけ異様に光り生きた人間の相ではなかった。軍医部の大尉も少々離れた所に一人で寝ていた。筒泉と同じ状態だった。周囲の畑からは相変わらず銃声が聞こえていた。
二日ほどして例の軍曹が「山一つ向うのゲリラの畑に看護婦が4人いる。地理偵察で出会ったから、君らのことを話しておいた」と話して下さった。夢ではないかと思った。『それこそ後発隊に違いないが、誰が生き残っているのだろう。銃声とどろく畑に留まっていないで早くこちらに来ればいいのに』と考えるだけで感極まってしまう。会いたくて会いたくていらいらしていると、翌日の昼頃、4人の姿が見えた。

後発隊