散華抄
召集令状を
受けて
ラバウル上陸
ココポの勤務
ラバウル患者
療養所
さらば
ラバウル
マニラ仮宿舎
ダバオ
第13陸軍病院
マライバライ
第4野戦病院
リナポ退避
ジャングル
逃避行
先発隊の記録
後発隊の記録
白旗を立て
ブツアン川を
武装解除
参考と出典

12)後発隊、7名(鍋島)の記録
残った者はテントのあった場所や近くを大きな声を出して探して歩いた。何時間探したか…それは長い長い焦燥の時間であった。高い自然林の中は薄暗く、山本さんを呼ぶ声のみが返ってくる。探しあぐねた末に見たものは…
昨夜の苦しそうな表情が消えて安らかに眠るように横たわっている姿であった。声にならない声で精一杯に名前を呼んだ。返事のあろうはずもないのに、そう叫ばずにはおられなかった。「どうぞ安らかに眠って下さい」というのが私たち班員の精一杯の別れの言葉であった。軽天や木の葉をかぶせて合掌(がっしょう)し冥福(めいふく)を祈った。
先発隊が出発してずいぶん時間が経っていた。木村,川上,斉藤,藤川,鍋島の5人は班の食料品を分けて持った。それからわずかばかりの梅干と塩は石岡婦長にたくした。

石岡婦長は今出と一足遅れて来ることになった。「枝を折って目印にしておきます」と先発隊を追って出発した。このようにバラバラに歩くことが死を意味すると知らず、ただ一歩でも踏みとどまることが死につながると考え、河を伝って平野へ平野へと、ただわけもなく歩くしかなかった。
川上の火傷(やけど)した足の皮膚は無惨にただれていたが包帯も薬もない。仕方なくそれを毛布を裂いたのでくるみ歯をくいしばって歩いていた。藤川は行軍(こうぐん)の初めから40度の熱で体力の消耗も激しく、班の中で一番若くお茶目で陽気で人気者だった面影など、もうどこにもなく「死にたい死にたい」と、一~二歩進んでは止まっていた。藤川の前に川上,後に私という形で「もう歩けない」という藤川を励まして歩いた。
『先発隊はどこにいるのだろう。あまり前進していないだろうに…』しかしいつのまにか先発隊の残してくれた木の枝の目印が見えなくなった。河を渡り河の見えるジャングルの中を歩いた。『道を間違えたのかも…。石岡婦長や今出は!』と思っても今来た道を引き返す勇気もない。

しばらく進むと川幅が広がり視界が開けた。『芋畑でも…』という期待はむなしく、石ころが並ぶ河原。
藤川がどうしても歩けないと河原に座ってしまった。一番元気な斉藤まで足を投げ出してものも言わない。川上は足の毛布をといて水ですすぎ河原に伸ばした。こんなに歩いたのに1kmとは進んでいないのだろう。さんさんと降り注ぐ太陽の光になぜか暑さを感じないし汗もかかない。朝、水筒のキャップ1杯のモミを口に入れたきりである。急にうとうとし始める。『眠ってはいけない』と思うと白い湯気のたった真っ白いご飯が現れ『あぁ、うれしい』と口を開けるとサッと消えてしまう。お豆腐の味噌汁が目の前に出て消える。現実と夢が交錯し、考えることも出来なくなった。…と、急に死の恐怖が押し寄せた。
マライバライの第四野戦病院にいたとき、激しい空襲に私はタコツボに逃げて両耳を手で覆い目をつぶっていた。そこへ松田書記が飛び込んで来て“鍋島か”と言ったかと思うとすぐ飛び出してしまった。あとで松田書記が2回も続けて見たという夢がこうであった。“僕がなぁ石段を一段一段と上がって行ったんや、紫の幕に菊の御紋が両方に浮き上がってなぁ、靖国神社だとわかった。なんでここへ来たのかなぁと振り返ると、山本と鍋島が続いているのや。来たら駄目だ!!と叫んで目が覚めた。僕が一番に靖国入りするんやと思うた”というのである。
松田書記の夢の話を考えていると、ふいに「今度は鍋島かもしれへん」という声が聞こえた。死ぬものか、生きるんだと自分の言い聞かせたが言葉にならなかった。涙が出てきた。せめて水でも飲みたいと川面に行ったが、反射的に口から離していた。生水を飲むこともまた死に結びつくということを知らされていたからだ。
私たちは水の中にニラを見つけ、飯盒(はんごう)でお湯を沸かすことにした。普通ならこんなに見晴らしのよい場所で煙を上げるような(上空の敵機に発見されやすい)ことはしないのだが。
湯を沸かしているときに飛行機が頭上を通ったが、だれもなにも言わずに、ゆうゆうとニラを石でつぶして食べた。すでに終戦していたことを知らされたのは後のことである。
お湯を飲むと少し元気が出てきた。と、ガサガサという音がして人の気配がして体を起こすと、河の前方から二人の日本の兵隊が出てきた。向うもおどろいたらしく「君ら、どうしているのか」と、きかれた。兵隊は偵察に来たのだという。木村さんが「先発隊と合流できず、道を間違えたのではないかと思うけれど、食べるものが何もないので困っている」と言うと、二人の兵隊は顔を見合わせて、「ここから2kmほど山へ行くと芋畑があるからとにかくそこに入って芋を食べててから行ってはどうか、このまま河を渡っても川幅は広くなるばかりで死んでしまう。自分らと一緒に行こう」と言ってくれた。私たちはどうしたものかと相談した。やはり先発隊に追いつこうということになったが、藤川がどうしても歩けないと言う。木村さんも出発前に河で転んで前歯を二本折り急に弱気になっていたし、川上も火傷が痛むらしい。斉藤と私は、それならしばらく芋畑に入って、元気を回復して出発しようと決めた。陽のあるうちに歩かないと進めなくなると兵隊にうながされる。芋畑に元気を奮い起こし、気にかかる石岡婦長と今出に私たちのものとはっきり分かるひもを木に結び、枝を折って目印を残した。どうかこの印が二人の目に留まりますようにと祈りながら歩いた。50mほど歩くと、また藤川が泣き出し「ほっておいてくれ」ときかない。藤川の荷物はほとんど斉藤や私が持ち、皆から遅れる形で「芋畑よ、さぁ頑張ろう」と元気付けながら、川上と私が両手をかかえるように一歩一歩あるくしか仕方がなかった。芋畑のあるところに着いたのは夕日も沈む頃であった。兵隊さん達は別の場所に行くからと別れて行った。

★芋畑での生活
土民の残した4本の丸木で支えられた腰高のニッパハウスは芋畑の上に建てられ見晴らしはよい。丸木の階段は苦痛だったが、テントを張らなくてもよいし、ギシギシきしんでも平らな寝る場所とかまど(火を燃した跡)があるのがうれしかった。水を汲みに行く元気はなかったが近くに水が流れている場所も教わった。
5人はひとまずここに住居をとり、二~三日で出発する予定をしていた。しかし、安心感からか、藤川が床につき起き上がることもできなくなってしまった。川上の足の火傷はしだいによくなり、目に見えて元気を取り戻した。木村さんは体の具合が悪いのか、外に出て芋を掘ることを嫌われるので、藤川の看病と炊事をお願いした。川上と斉藤と私の三人は陽が昇ると帯剣を持って芋ほりに出かけた。一日にせいぜい五、六個の芋しか見つけられなかったが、芋の茎を煮たり葉を蒸したりして木村さんが料理してくれた。塩を持っている人もあったが、一日に少ししかなめさせてもらえず辛いものが欲しかった。倒木を超えるにも足が上がらない。
ある日、芋を掘りながらカタツムリの殻を見つけた。土を払って大切に持ち石で砕いてなめると塩辛かった。カタツムリを探して三人一緒に畑の横のジャングルに入ると(一かたまりで歩かないと道がわからなくなる)耳のついたカタツムリがいた。木村さんがそのまま火で焼いてくれた。口に入れると泡が口いっぱいにたまって気味悪かったが食べてしまった。
何日か経ったある日、藤川が持っていたお守り袋の中からカビのはえた小さなお餅を「ダバオに居た時、家から送ってきたのよ、皆で食べよう」と出した。大事に持っていたのを思い出したのだろう。一人一人手に取って、カビの生えたお餅(もち)をなでた。お互いに忘れっぽくなっていたが、お餅が出てくるなんてうれしくてうれしくて視線をお餅に集中させて、木村さんが飯盒で炊いてくれるのを見守った。出来上がったドロドロのお餅を、一口ずつなめた。日本のお米だと思うだけで、なめた一口のお餅をたやすくノドへ送りこむことはできなかった。ゆっくりとじわりじわりかむようにして食べた。飯盒の底に残っているのを一人ずつ回してなめた。お米の匂いがたまらなく懐かしかった。その夜は5人で飯盒に残ったお持ちの匂いを顔から離さなかった。
藤川さんの前では先発隊の話題をさけて、家のことを話すようにした。お互いの家の構造から家族のことなど…白い障子や納戸や土間、フカフカした白いご飯の上に梅干がのって…でも食べようとすると遠くへ飛んでいってしまう。話はたいてい、食べるところで終わった。明けても暮れても食糧を求める時間が続いた。
ある日、ジャングルの中で小鳥の声を聞いた。小鳥が鳴いている、何かあるのかもしれない、体力がもどって勘が働くようになっていた。3人で出かけると甘酸っぱいにおいがしてきた。そこに熟した木の実が落ちていた。その上で青や赤の小鳥が実をつついていた。ちょうど小鳥屋で見るような美しい鳥だった。小鳥の食べ残したものを拾いあげた。行軍の途中でお化けのようなワラビを食べて口から泡を出して死んだ人を見たことがあるので『毒かもしれない』と一瞬ためらった。「小鳥が食べてるから大丈夫よ、私が食べてみる」と一口食べると…美味しいこと、甘酸っぱい味、思わず五~六個拾って口に入れた。三人は一つ残さず拾った。『美味しい。木村さんと藤川さんに持って帰ってやらねば、また明日も来ましょう。今日は本当にいい日だった』と喜ぶ。
南方では植物の成長が早い。芋畑も私たちのもののようになり、ウズラほどのカボチャが二日ほどで人の頭ほどの大きさになったり、キュウリが30cmほどになったりする。あるとき、芋畑のすみで可愛いタカノツメ(赤唐辛子)をみつけた。一口で口中ヒリヒリする。ヒリヒリが残っているところでお芋を食べるとお塩を振りかけた気分になる。皆に分けて、ある場所も教える。私は腹巻の中に入れ大切にしまっておいた。水を汲みに行くのが大変な仕事で交代で飯盒や水筒を持って汲みに行った。
藤川はあまり変わらず、足のむくみが目立ってきた。出かけるときは「今日はヘビかトカゲがとれたらいいね」とか「キュウリをとってくるよ」と慰めの言葉を残した。
半月ほどが過ぎた頃には、飛行機が悠々と飛んで行っても何とも感じなくなっていた。この頃、ニッパハウスの下で寝ている赤犬を見た。その夜から遠くで太鼓の音や犬の遠吠えが聞こえたりニッパの下に人の気配を感じたりして気味悪くなった。マッチが少ないのと夜は冷えるということで今までは夜に火を絶やさず少しずつ燃やしていたが、火を消して寝ることにした。その数日後の昼間、火がパッと屋根の上に燃え上がり、パチパチと音を立てて燃え出した。急いでリュックを下に落とし、藤川を背負って降ろし、最後に飯盒を持って飛び降りた。骨折せずに足に少しの火傷で済んだのは不幸中の幸だった。火の手の上がるのを見て、近くの芋畑の兵隊さんが二人かけつけてくれた。「よくもこんな高いところにいたもんだ。ゲリラにねらわれますよ。」と言われ不安になった。今まではまさに知らぬが仏だったのだ。

★後発隊、二班に分かれる
私たち5人そろってその兵隊さんたちのところに行く広さはなく、向うから兵隊さんが3人(少尉と下士官2名が)こちらに来てくださり、くじ引きで斉藤と私がむこうに行くことに決まった。ゲリラに注意しながら陸稲が実ったら少しでも多く持って出発することになった。
火事で動かした藤川は息苦しそうだったが「今度会うときには歩けるようになってるわ、元気でね」と、反対に勇気付けられたが、これが藤川との永遠の別れになろうとは…。
足はだいぶしっかりしてきたが、まだ倒木があると両手で足を持ち上げなくてはならなかった。薄暗い土民道を通って、兵隊さんに遅れないよう必死でついていった。
兵隊さんたちのニッパハウスは見晴らしのいいところで、前の陸稲畑には花が咲き、後ろは芋畑に開拓されていた。伍長と兵長と上等兵の三人のところに斉藤と私が入って5人になった。2週間ほどでお米も少しずつ食べられるようになった。まだ足がはれていて水汲みは大変だったが、いつも斉藤と一緒に炊事を受け持ち芋掘りもした。陸稲の熟した穂を手でしごいてモミを持って帰り鉄かぶとの中でついて米にする。原始的な手作業なのでモミの殻がはがされただけの玄米とモミの入り混じったものであったが、お米のご飯が食べられることが何より嬉しかった。伍長がよい方で「日赤の看護婦として恥ずかしくない行動を取らなくては。日本に帰るまで頑張るんだ」と元気づけて下さった。
朝夕のジャングルでは野雞(野生のキジのような鳥)が飛び廻り奇声が気味悪かった。ある日、野雞を撃って来たと伍長が持って帰られた。内地の鶏と少しも変わらないのに高い木の上を飛びかうのには驚いた。久しぶりの鶏に斉藤と私が腕をふるうことになり、斉藤が「お塩が少しある」とリュックの底から出してきた。このような時間は長くは続かなかった。
この頃から鉄砲の音がジャングルにこだまするようになってきた。「誰かが野雞を撃っているのかなぁ。ゲリラかもしれない。」と伍長さんたちは話されていた。
ある日、夕食にしようと輪になって座ったとき、突然パンパンと鉄砲の音がして誰かが倒れた。「斉藤?」ととっさに叫ぶと「鍋島無事か?」と元気な声がかえってきた。伍長さんがしゃにむに引っ張ってジャングルに走り込んだ。「こんな日のために別の土民道を偵察しておいた」とのこと。裸足のままどれくらい逃げただろうか。またパンパンと鉄砲の音がして急に静かになった。雨が降り出した。すごいスコール。私たちは着の身着のまま、裸足のずぶ濡れ姿で川上たちのいるニッパハウスまで歩いた。「よかったぁ。それにしても上等兵は気の毒な…」と、伍長さんから、私の横にいた上等兵が即死だったことを知らされた。
二度の銃声に心配していた元のニッパハウスに着くなり、兵隊さんたちは「またこのような襲撃があるかもしれない」と銃の手入れを始めた。私はこのとき、藤川の死を知った。

★同級生、藤川八重子のこと
私と斉藤が兵隊さんのニッパハウスに移ってから、藤川の様子が急に悪くなり、眠るように他界したとのこと。川上から小高い芋畑の丘に土葬したと聞き、全員で参り冥福を祈った。明日は自分の運命かもしれない。藤川と川上と私は背丈が一緒で、班の中ではいつも一緒に後ろの列にいて気が合ったので、一人減ったことに胸が痛む。
神戸を出発するとき、日赤の正装で川上と三人で写真を撮った。「三人で撮ると真ん中の人が最初に死ぬというから人形を入れよう」ということになった。私たちは神戸で出来上がった写真を実際に手にしたことはなかったのに、行軍の途中で「もう駄目だ」と言い出した藤川が、この迷信の話を川上と私につぶやいた。私たちは「4人だったから迷信を気にしちゃいけない」と断言したのだが。
襲撃の翌日、昼間ならゲリラの襲撃もないだろうと、伍長と兵長と斉藤と一緒にニッパハウスの様子を見に行った。行軍に備えてやっと貯めた1斗(約18㍑)ほどのお米と斉藤と私の持ち物のリュックが持ち去られ、飯盒と地下足袋だけが残されていた。4人で上等兵を芋畑に埋葬して冥福を祈った。ここは始終監視されているようで、急いで川上たちのニッパハウスに退避した。

★真っ赤な月
当番を作って、水を汲みに芋畑をまっすぐに降りた。昼間でも鬱蒼(うっそう)とした林の中に川が流れていた。水がきれいなので時には水浴や洗濯をした。この日も水の中で体を洗いながら『これが私の体であろうか』と眺めてため息をついていた。とても痩せて皮膚のつやもなく、両膝を抱えると立つこともできない。これでも、体を洗ったり洗濯できるだけでも幸せである。
水はサラサラ音をたてて流れていて岩と木のあいだから異様に赤い月が見えた。戦争を呪(のろ)う魂の塊のように思われて血塗られたような月におもわずギクリとした。「斉藤、あの月どうしたんやろ、大きいし真っ赤やないの」と言ったが、さすがに「血のような月」とは言葉にできなかった。斉藤は体をふきながら「私もさいぜんから気になっていた」などと話した。体の中を氷が走るような殺気を感じた。私の立っているそばに生々しい素足の大きな足跡があった。その足の指の間がはっきり分かれた足跡は地下足袋(じかたび)を履いている私達の物ではない。『土民のものではないか!』二人は黙って、月に隠れるように重い足を運んだ。真っ赤な月と土民のものらしい大きな足跡の報告をすると、兵隊の一人が「ひでりか大洪水かの天変地異の前兆」と話してくれた。そして、厳重に見張りをするように注意をされた。私達はいつでも逃げられるように準備を始め、ひでりも大洪水も、人間と人間の殺し合いも起こらないように祈った。

★川上の負傷のこと
どこからか偵察されているような重苦しい日々が続いた。昼間は肩から袋をさげて手に帯剣を持ち、芋を探したり陸稲の熟した穂を見つけてはしごいてモミを採って鉄かぶとに入れたりした。こうして玄米にしたのだが、玄米といっても半分はモミが入っていて全員のを合わせても一日に5合にもならない。それでも行軍に備えて私達は一生懸命精を出した。マッチが残り少ないのと夜になるとブヨが出るので大きな生木を燃やしていたが、ここも狙われているという予感が強くなり、当番を決めて夜は見張りをした。ここに来て2週間ほどした夕方、雨が降りだしたので雨水を飯盒に受けようと川上と私が立ち上がって並んだ。飯盒を左手に持ち胸の所まで持ち上げた時、パンパンという音と飯盒が手から落ちたのと「痛い」とうなる川上の悲鳴が同時だった。襲撃だと考える暇もなく二人はニッパの方に逃げた。兵隊は全員、弾が来た方に応戦した。平岡伍長が「弾が少ないので無理せず慎重に」と指揮をされ、私たちの避難場所も指示された。川上の右の人差し指から血が流れていた。すぐに頭の三角巾を裂いて止血した。
パンパンパンヒューンヒューンと弾が飛びかう中、木村,斉藤,川上と私は反対側の斜面にブルブル震えながら逃げ込んだ。川上は歯をくいしばって痛みをこらえている。私の肩に川上の手をのせて痛みを少しでも楽にしようとしたが、雨は降ってくるし寒さでガタガタ震えだした。木村さんと斉藤が手探りで川上の止血をゆるめたりしめたりしていた。私の首に生ぬるい血が流れるのを感じた。すぐに滑り落ちそうな急斜面でツルにしがみついて、神様お守り下さいと祈った。
静かになって「日本兵らしいのが逃げていく」「いや、土民ではないか?」と言うのが聞こえてきた。平岡伍長が「誰だ、日本人なのか、日本人なら撃ち合いはやめよう、出て来てくれ、食糧も少しはある、一緒に行軍しようじゃないか」と叫んだ。「土人ではない」という声がまたした。「日本人なら撃ち合いはやめよう」と言われた時、パンパンという音と平岡伍長がやられたという兵隊の悲痛な声が聞こえた。斜面でツルや木につかまっている私達にはどうすることもできない。長い長い時間が経ったように思う。雨はやみ、やっと夜がしらんできた。鉄砲の音もしなくなった。私達は川上を護りながら斜面から這い上がった。
平岡伍長の死は悲しかった。常々「日本人同士は撃ち合ってはいけない。話をすれば分かる。こんな時こそ手を取り合わねば」とおっしゃっていた。「班長殿!」と皆から慕われ信望のあった人だけに一層惜しまれた。残った兵隊で土葬にし冥福を祈った。
鉄砲の音で、分散してニッパの畑にいた兵隊が偵察にやって来た。このところニッパハウスが次々に襲撃され皆殺しされたところもあるそうだ。山の向かいに看護婦が四~五人いるから一緒になれるとも伝えてくれた。どんな人かを尋ねたが、看護婦である以外何も分からなかった。とにかく、本隊に一日も早く合流しようということに決まった。

★先発隊との再会
斉藤と私はリュックを盗られてしまったので川上や木村さんから分けてもらった物や米をもらって出発することになった。川上の荷物も斉藤と分けて持った。前に五~六名の兵隊,その次に斉藤,木村,川上,私,その後にまた兵隊が並んで歩いた。『先発隊は12名いたのに四~五名とはとは誰と誰であろう…』とにかく会えると思うだけで嬉しかった。川上の手の傷には薬もなく、仕方ないのでお湯を冷ましてかけて傷口を洗い、頭の三角巾で傷を巻いた。
この頃から木村さんの咳が激しく「早く日本に帰りたい、帰りたい」と独り言を繰り返すようになった。
何キロ歩いただろう…、偵察に来てくれた兵隊が「あそこですよ」と指で教えてくれた。『あぁ、いる、いる、懐かしい顔が…、今日は皆に会える』と思うと足が軽くなる。
兵隊たちは「本隊のいる所までもう少しあるから行きます。お元気で日本に帰って下さい」と別れて行った。
尾崎,贄田,奥西,牧本がとんで来た。皆手を取り合って泣いて再会を喜び合った、がそれも束の間、筒泉のこと、また班の先輩、同級生の痛ましい最期を聞き、なんともやりきれない気持ちになった。それでも会えたことがどんなに嬉しかったことか!!
私達は筒泉の寝ているテントに行って「皆元気でよかったぁ、一緒になれたんだから大丈夫よ」と言ったものの筒泉の手を取って皆で泣いてしまったた。私の手は爪が全部そりかえってひどい状態になっていることに初めて気づいた。その日は興奮と安心感で耳だけがさえて眠ることができなかった。筒泉が『鍋島、鍋島』と呼んだ気がしたが、足が腫れて立つこともできない。夜になると目も全く見えなくなっていた。川上も手の傷の痛みにうなっているが、薬もなくどうしようもない。ただ『筒泉、頑張るのよ』『川上、頑張ってね』『神様どうぞ見守って下さい』と心の中で祈るしかすべがなかった。

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