散華抄
召集令状を
受けて
ラバウル上陸
ココポの勤務
ラバウル患者
療養所
さらば
ラバウル
マニラ仮宿舎
ダバオ
第13陸軍病院
マライバライ
第4野戦病院
リナポ退避
ジャングル
逃避行
先発隊の記録
後発隊の記録
白旗を立て
ブツアン川を
武装解除
参考と出典

13)重い決断:白旗を立ててブツアン川を下る
鍋島も極度の疲労と栄養失調で寝込んでしまった。上体を起こして胸のところを押さえるようにすればかろうじて聞こえる程度の声が出せるのだが…。このとき私はふと、二~三個の塩の錠剤を宝のように持っていたことを思い出した。セロハンで幾重にも幾重にも包み込んでお守り袋の中に入れていたのだ。『あぁ、これを鍋島になめさせればこの状態を軽くできるかもしれない』と思いついた。なぜこんなことを思いついたのか、今でも分からないのだが、長い間忘れていた塩の粒のことをこのときになって思い出したのだ。その一粒を鍋島に渡すと、鍋島はビックリしたように感謝したが、結果はよくなかった。久しく塩分を摂らなかった体に急に塩分を与えたので、その副作用だろう、全身にむくみがきた。よけいに鍋島を苦しめて心苦しかった。『こんなものをなめたり人にあげたりするものじゃない』と悔やんだ。とにかく、鍋島はのりきってくれたのでほっとした。
筒泉は相変わらず腹を叩きながら苦しんでいて『今日か明日までの命では』と案じられた。モルヒネはもしものとき(自決用)と武器の代わりとして持っていたが、体力を失った患者に注射することは死につながることが分かっていた。筒泉には一日でも長く生きて欲しい…。苦痛をやわらげてやることが誠の友情なのか…私達には判断できなくなっていた。
鉤兵団(こうへいだん)の参謀部将校が土民に案内されて、師団長の命令を書いたガリ版刷りの書類を持って尋ねてきた。それには「昭和20年8月15日大命に基づき停戦協定成立す、予はコグマン捕虜収容所にあり、よって各部隊は左のところに投降すべし」と記してあった。これを私達と一緒にいる参謀が小躍りして読んだのは申すまでもないこと。輜重(しちょう)連隊と工兵連隊から明朝出発の連絡があった。参謀は直ちに集合をかけた。体が動くのは五~六名の兵隊と私達だけなのに、大声で伝令した。私達は筒泉に聞こえはしないかハラハラしていた。残り数日の命の筒泉にはこの事実をできることなら知られたくなかった。
終戦と聞き一番に感じたことは『あぁ、これで助かった、これで内地に戻れるかもしれないとい』というほっとした気持ちだ。私達のような平凡な人間には、その後の祖国の運命などに想いはおよびもしなかった。が、しかしその次にきたものは死んだ人はどうなるのだ、必ず勝つと信じて死んでいったのに…と思うと泣けて泣けて仕方がなかった。心は全く上の空で、何を考え何を思っているのか、思考力が衰えて何も分からなくなった。
集合が解かれるか解かれないうち、筒泉が呼んだ。ハッとしてとんでいくと、「日本、負けたんか」と言った。「いや、負けやせん」と答えると、「参謀の声が聞こえた」と言った。私は思わず「嘘だ」と言ってしまった。筒泉は「貴女ら山降りるんやろ」と言う。「筒泉をほって降りやせん」と答えると、「私がいま少し元気な姿で、少しでも歩けるならば皆と一緒に山を降りるけど、こんなみじめな姿になって米軍の前にでるのはいや。恥さらしに降りとうはない、殺して欲しい」と言い出した。「無理言ったらいかん、無茶や」と言ったがどうしてもきかない。
斉藤と私は参謀のところへ行ってこのことを話した。すると参謀は、「さぁ、女ならこんな場合どうするかな。男なら自決するけどなぁ…」と言った。
無性に腹が立って「女でも武器があれば自決します」と叩きつけるように言って荒々しくその場を去り、その足で軍医部の曹長の所に行った。曹長は「貴女達の気持ちもよく分かる。が、真の友情があるなら注射をしてやることだ。注射薬がなければさしあげますよ」と言った。斉藤と私は悲しくて涙が出て仕方なかった。とにかく「薬はありますから…」とその場を辞した。
斉藤と私は筒泉のそばに行った。腹が痛いらしく腹を叩いているので、バナナの葉を上においてしばらくさすっていた。涙を見せまいと必死にこらえたが…涙で顔が上げられなくなった。筒泉は静かに「あのなぁ、お母ちゃんにだけもう一辺会いたかったと言うといてなぁ…」と、ボロボロ涙をこぼした。
斉藤と私は相談して『痛みを止めてやるのだ、痛みを止めてやるのだ』と…三分の一アンプルだけ注射することにした。普通の人なら鎮痛剤にも足りない量であるが…。「筒泉、今すぐ痛みが止まるから」と言いながら注射をしようとした。が、どうしてもできなかった。結局、筒泉は一晩中苦しんで、私たちの手を握りしめたまま旅立った。『一足先に内地に帰ってお母さんに会っている』と思うしかなかった。
夜明けに拳銃の音がした。ジャングルにわいている小ヒルが目に吸いついたとかで下痢でふせっていた軍医部の大尉がとうとうみんなと行動ができぬとさとり、拳銃自殺をしたのだ。一度は嫌ったが、こうなれば誰が悪いのでもない、みんな気の毒なのだと、見えない大きな力に怒りを感じた。
早々に荷物をまとめて久野連隊長の山に集合した。看護婦は8名になっていた。その日のうちに下山して川原に着いた。
このまま山を通って平野を目指すのは危険との判断で、いかだを組んで川を下ることになった。看護婦としての容赦などなく、竹切りやいかだ組みを兵隊と同様にした。どこの隊か知らないが、年取った少尉が口わるく私達をこき使った。この人がどうして私達に冷たくするのか分からなかった。いかだが出来上がると、私達はそれぞれ兵隊のいかだに分散して乗ることに決まった。参謀部の曹長が贄田と私に「俺のいかだに乗りなさい」と言われた。川上が選りによってあの意地悪い少尉のいかだに乗るようになってしまった。少しずつ間をおいて出発した。参謀や久野隊長はずっと前のいかだに乗っているのか、見当たらなかった。夜がくると岸に上がって宿営した。一いかだごとに飯盒でご飯を炊くように決められていたが、看護婦の飯盒をかけてくれる兵隊は一人もいなかった。贄田と私は二人で軽天を張り、二人で飯盒一杯のご飯を炊き、ブトにくわれないように手足と顔を下着のボロに包んで抱きあうようにして幾晩かを過ごした。川幅が広くなって平野に出た頃から、いかだが通ると部落から部落に知らせるらしく土民が銃で合図をするので、危険を感じて一斉に白旗をつけた。白旗には私の下着を提供した。川幅が広くなるにつれて渦を巻いている箇所が増え、動きがとられることがあった。特に川上が乗っているいかだは少尉さんが下手で、たびたび渦の中をグルグル回っていた。一晩遅れてくる川上のいかだを待つこともあったが、川上は何も言わずに運は天に任せたという顔でいかだの真ん中に平然と座っていた。この川上の態度は実に感じ入ったもので、日々ビクビクしていた私達は大いに見習うところがあった。
明日はいよいよ大きな川との合流点で、そこには大きな渦が巻いていて普通の船でも巻き込まれたら最後だと聞いた。『ここまで来ていよいよか…』と恐ろしかった。しかし、まさに天祐神助。そのちょっと手前まで米軍のランチが迎えに来ていた。私達はホッと、ランチに乗り込みアグサン州サグントにある米比軍(アメリカとフィリピンの連合軍)に投降したのである。

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