散華抄
召集令状を
受けて
ラバウル上陸
ココポの勤務
ラバウル患者
療養所
さらば
ラバウル
マニラ仮宿舎
ダバオ
第13陸軍病院
マライバライ
第4野戦病院
リナポ退避
ジャングル
逃避行
先発隊の記録
後発隊の記録
白旗を立て
ブツアン川を
武装解除
参考と出典

4)ラバウル患者療養所
剛第3015部隊はインテリぞろいの衛生隊で、上も下も心を一つにして本当に気持ちのいい部隊であった。少人数ということもあり隊長はじめ全員が親とも兄弟とも思えるような人たちで安心して過ごせた。ここではニューギニア・ブーゲンビルから潜水艦で直接輸送されてくる患者を収容し、たびたびやってくる大空襲のあいまをぬって壕の内外をとび廻りながら救護活動が展開された。文字通りきりきり舞いの連続だったが苦痛に思ったことはなかった。
朝食が終わると全員、壕道(ごうどう)を通って広場に集合し高野隊長の抜刀指揮で宮城遥拝(きゅうじょうようはい)をし、『これが最後になるかもしれない』とひそかに覚悟を決めて、黙祷(もくとう)をささげて勤務に就いた。
病室を任されるのは私たち看護婦と少数の衛生兵だけで、下士官や将校は毎日スコップを肩に壕(敵の攻撃から身をまもるために掘った溝や穴のこと)掘りをし、隊長は炊事場で使役(しえき)という前線ならではの風景。二、三日で隊の気風にも慣れた。その頃“ラバ患者園遊会”が開かれ、私たちはおしるこ屋やうどん屋になり演芸会で歌と寸劇をした。その時の様子が内地のアサヒグラフに掲載され、さっそく姫路赤十字病院から「うらやましい」/「私たちもおしるこを食べたい」などの寄せ書きをもらった。(その頃の内地は、衣食品全てが配給で、甘いものを口にすることはほとんどできなかったから)
最前線とはいいながら、空襲のあいまを患者も隊員もまた他の部隊の人々も一緒になってつとめて明るく楽しくいたわりあう生活は、三カ年間で一番楽しい日々だった。何千万という人々が互いに助け合い、弱い者を大切にいたわり、心を一つに各自の本分をつくしたラバウル…このようにうるわしい共同体は他に類がないだろう。第376救護班も最後までラバウルに残れば、班員そろって内地に戻れたのであろうが…。
神ならぬ身の知る由(よし)もなく、フィリピンに後退してドン底にあるとき精神の支えがラバウルでの思い出であった。
9月頃から空襲が激しさを増した。
10月頃から懸命に壕堀が続けられ、私たちの勤務も地上から壕内に変わった。この頃、敵上陸の報が伝えられ、まもなく第8方面軍司令部から「軍人以外は全員後退するように」との命令が下り、10月20日にはココポ第103兵站病院派遣の関口婦長以下11名が復帰した。
11月5日の大空襲のときは、ブーゲンビル島沖通過という情報と同時に、敵の大編隊がラバウル上空に現れた。軽症患者は病棟日誌などの非常持出品と私たちの着替え入れ袋などをさげて壕に退避してくれたが、網戸の中の隔離患者数名を床下までも避難させる余裕がなく、私はそこで覚悟を決めた。伊藤伊之助という新聞記者で少々頭のおかしくなっている重症患者のそばに、赤痢患者用のマットを頭からかぶって座った。動くことのできない伍長さんが、「看護婦さん逃げて下さい。私たちはどうなっても仕方がないが、看護婦さんに倒れられたら…」と声をつまらせて退避を勧める。だが『どうしてこの人たちを残して逃げられよう』退避を勧められれば勧められるほど気持ちが落ち着き、「いいのよ。何も言わないことと思わないこと。こうしてじっと我慢しましょうね。」と答えた。ついにその伍長は声を出して泣き出す。バラックの貧弱なドアは爆風で音を立てる。何回となく病棟の上で旋回する音。隣の兵器廠(へいきしょう:兵器の管理倉庫)の機関砲は気が狂ったように撃っている。『かえって攻撃目標にされるのではないか』と不安。最初は「恐い、恐い」と言う伊藤さんの上に覆いかぶさるようにマットをかぶっていたが、「看護婦さんがいくらそばにいても爆弾が落ちたらしまいや!」と叫びながら動けぬ体の伊藤さんが狂騒状態になりだし、私は思わずピシャリと頬を叩く。半分いかれている患者と知りながらも…、看護婦がそばにいても何もならないことがよく分かっているだけに…、本当のことを言われて無性に情けなく、伊之助さんを見ていて涙が出そうになり、ただただ早く敵機が行くことを念ずるばかり。このとき、いつものように機銃掃射があればおしまいだっただろうが、幸いなことに私の病棟にはなかった。ただ、その伊之助さんは半月後に亡くなった。
私たちは当然のことをしただけだったが、どの病棟の看護婦もほとんどが重病患者に付き添って病棟に居残ったそうで、隊長から感謝状をいただいた。
11月26日には、病院船ブエノスアイレス丸が日赤の看護婦と患者を乗せてフイリッピンに向けて出航することになったが、その前日に私たち兵庫班だけがラバウルに居残るように命令が変更された。
私の病室からも何人かの内地還送患者を送り出した。そのブエノスアイレス丸がラバウル港入り口キャビエングの横で撃沈されたと知らされたのは11月27日だった。乗船して行った懐かしい顔が浮かんで胸が痛んだ。彼らの中の数人が1週間の漂流の末にやっとラバウル港に戻って来たが、看護婦さんたちは重油と塩水のために真っ黒に日焼けし、何ともいいようのない気の毒な有様で、一週間前に別れた人とは思えない変わりようだった。早速、私たちの衣服を分けあい、ココポの103兵站病院に収容された患者さんにはフンドシなどの慰問袋を作って送った。
12月12日の大空襲では昼食の最中に警報が出た。珍しくうどんの日で、急いで立ち食いをしていると煙火薬砲激しい音。『いつもと違う』と思って外に飛び出すと、官邸山の谷間からアメリカの編隊が見えた。とっさに、そのまま病舎に走った。途中、四つ角で「どこに行くのか!」と、士官の必死の声。「病舎」と叫んで一目散に病舎に駆けこむと、空襲に慣れた患者はのんきそうにうどんを食べている最中。私は大声で「壕に入る間がない。早く病室の床下に、早く」と叫んで回った。そして歩けない人を担架に乗せ、前だけを持って一人でひきずって、床下に次々と引きずり込んだ。これが最初の昼間の大空襲だった。
よくもこんな力があったものだと後になって皆の笑い話にされたが、このとき一名の犠牲者も出さなかったのは幸だった。
このときの港の攻撃は特にひどかったらしく、多くの軍艦が黒々と煙を吐いている様子がココポの高台から見えた。夜の攻撃目標になるのをさけるために友軍の軍艦から炎上する艦を撃つ砲声が痛ましく胸をつらぬいた。
空襲が激しくなればなるほど、私たちは緊密の度を加え、衛生兵,患者,看護婦がお互いに信頼し助け合いいたわりあうようになっていた。
この頃からよく病院に、16~17才の少年航空兵が私たちを「姉さん」と呼んで慕って来るようになった。“り号病棟”に結核で入院した馬場君には内地還送の命令が出たのだが、「絶対に帰らない」と泣いて怒っていた。
少年航空兵たちは「明日はいよいよ出発します。油は大切だから片道分しか入れて行きません。飛行機は一人乗りで少々淋しいです。お姉さん、どんな布でもよろしいから小さな人形を作って下さい。」と、よく訪ねて来たものだ。夜一生懸命に手作りした人形を手渡すときのしめつけられる胸の痛みは忘れることができない。私と特に親しくしていた山野高明ちゃんにも、ありあわせの布で黒いはかまを着けた小坊主さんを作って渡した。その翌日、彼は私の病棟の上を旋回しながら手をふって南海の空に飛び去って行った。

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