散華抄
召集令状を
受けて
ラバウル上陸
ココポの勤務
ラバウル患者
療養所
さらば
ラバウル
マニラ仮宿舎
ダバオ
第13陸軍病院
マライバライ
第4野戦病院
リナポ退避
ジャングル
逃避行
先発隊の記録
後発隊の記録
白旗を立て
ブツアン川を
武装解除
参考と出典

7)ダバオ第13陸軍病院
ダバオといえば日本からの移民の人がマニラ麻を多く作っているところ。
街頭には屋台店が並び、はだしの原住民女性がのんびりと売っている小さな町だが、ここもマニラと同様のインフレだった。
ダバオ第13陸軍病院はこれまでの野戦病院の中で一番設備が整い、外科には熊本の陸軍看護婦が10名ほど勤務していた。ラバウルの最前線と比べて何か物足りなさを感じながらも一生懸命に勤務した。
将校内科に勤務するようになったある日、飛行場設営隊の少尉さんが血を吐いて入院してきた。付き添い当番は熊本出身の兵隊さんが一人だけ。「元気なときは先頭に立って飛行場の設営に当たったのに、やっと飛行場が出来上がったときに喀血(かっけつ)して、肺病と分かると誰一人として隊から見舞いに来ないんです。」と憮然(ぶぜん)として話しかけてきたが、何も答えられなかった。
福島出身の深沢少尉は少しでも動くとゴボッと喀血するので胸に重たい砂袋を置いて天井をにらんでいるだけだった。ちょうど比島に秋草の咲く頃で、キキョウやススキなどをお部屋に飾ってさしあげた、物を言えば咳…,咳をすれば喀血という重症で、言葉を交わせるようになったのは相当日数が経ってからのことだった。
「自分は文学に進みたかったが親の勧めで拓大を卒業して結婚し一児を得たが、今はその妻も子も亡くした」とのこと。部隊から見離され、身動きできず、煩悶(はんもん)の時に苛立(いらだ)つこともあったが、「少尉殿、やんちゃを言って当番さんを困らせてはいけません。」と言うと、目をうるませて物静かに影を落とす方だった。内地還送が決まると、ご自分のノートに「貴女は従軍したというだけで結構ではないのか。貴女は本当にまじめすぎる、この殺ばつとした戦場においても自分を大切にして欲しい」といった内容を感情を押し殺して書きつづって下さった。
後日、内地還送の任務に当たった兵隊から「深沢少尉が自棄をおこして、空襲だというのに甲板に上がっていく、止めても聞かず、全く困った」と話してくれた。ご自分を大切にできずに、おそらく寂しく奥さんやお子さんのそばにゆかれたのだろう。
ほどなく、私たちも軍用トラックに分乗してダバオを離れた。その頃から負け戦の悲哀を感じるようになった。夜はヘッドライトを点けられずに停車して道ばたの泥水でご飯を炊いたり、モロ族の攻撃を恐れて蚊に刺されながらトラックの下で小さくなって寝たりと、逃げまどう15日間ほどでガヤンに着いた。
ガヤンも空襲の連続で壕らしいものは何一つなく、私たちが勤務できる場所ではなかった。ヤシ畑にやっと患者を連れて逃げれば、そこが攻撃されて多くの犠牲者を出すというしまつで手のほどこしようがなかった。『フィリピンの軍隊は何をしているのか…』とラバウルとはあまりにもかけ離れた軍人の気風を腹立たしく思うばかりだった。
いよいよ空襲が激しく患者の収容も不能となり、ミサミス州グサに逃避した。グサでの任務は衛生材料の再製と保管,ヤシ油の製造だった。グサには、かつて日本軍全盛期にフィリピンのゲリラが使用したらしい大きな横穴があり、山の中腹にはトンネルが掘ってあった。この頃から敵の飛行機が日に何回も頭上を旋回してはレイテ港攻撃が繰り返された。空襲を避けて横穴から敵機をにらみすえるばかりで、ついに敵が上陸してきた。

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