散華抄
召集令状を
受けて
ラバウル上陸
ココポの勤務
ラバウル患者
療養所
さらば
ラバウル
マニラ仮宿舎
ダバオ
第13陸軍病院
マライバライ
第4野戦病院
リナポ退避
ジャングル
逃避行
先発隊の記録
後発隊の記録
白旗を立て
ブツアン川を
武装解除
参考と出典

8)マライバライ第4野戦病院

昭和20121:私たちは第30師団第4野戦病院への派遣が命じられて、その夜のうちに発つことになった。何かに追われる気持ちで軍用トラックにゆられていると、無性に母が恋しくなり涙が流れた。ダバオから来るときには何とも感じなかった道が、夜中だというのにざわついて不気味だった。黒い霧におしつつまれるような不安におののきながら高原のマライバライ第4野戦病院に到着したのは夜明け近くだった。

病舎も宿舎も民家だったところで、50mおきくらいに点在した四つの病舎に分散して勤務することになった。私の病舎の前にはカキの実に似た果物が真っ赤に熟れていた。内地からの補給がとだえたフィリピン島の食糧事情は日に日に悪化していた。おかずはタンコンと言う野菜のすまし汁で、主食はトウモロコシ8割に米2割程度を混ぜたものでゴロゴロしていた。この頃よく原住民からタピオカで作った団子を買って食べた。ある日、同級生の筒泉が衣類と引き換えに原住民から鶏を2羽もらって来て「休日に料理して食べさせてあげる」と張り切っていた。私たちは、その素晴らしい思いつきに喜んで、乏しい食事をさいて鶏のえさにしたのだが…、ある朝「鶏がおらないよ。」という声におどろいてとび起きた。後で第4病棟の庶務(しょむ)の裏口に散乱している羽毛を見つけたときには二度びっくりした。

原住民から「水牛が盗まれないように、水牛の首につなを巻き、そのつなのはじを手に巻いて、時々つなを引いて手ごたえを確かめながら寝ていたが、朝起きたら、牛の代わりに大きな石につながれていた。水牛を失ってこの先どうすればいいか分からない…」という話を聞いて同情していたが、まさか、同じ配属部隊の日本兵の食糧にされていたとは想像もできないことで、何ともやりきれない気持ちになった。私たち下級生は庶務主任のM中尉に談判に行ったが、M中尉はニタリニタリと笑いながら知らぬ存ぜぬの一点張りで、結局、原住民と同様に泣き寝入りするしか仕方なかった。この部隊は全てがこの調子で、空襲が激しくなると病院には看護婦だけを残して隊長以下全員が3kmも4kmも離れた奥地に書類だけを持って朝早くから夕暮れまで避難していた。

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