二つの祖国(そこく)

鮫島(Sameshima)等(Hitoshi)

太平洋のかけ橋

やまとだましをもったアメリカ人

古めかしい農村を嫌って新天地を目指した若者もいたが、1868年~1900年頃のパイオニア移民の多くは錦衣帰郷(きんいききょう)を夢見ていた。
明治維新で農民が納める税金のシステムも変わり、清国とロシアを相手にした十年ごとの戦争などで農村は荒れ、米や生糸の生産が減っていた。
農村にはさまざまな仕事の斡旋所ができ「校長先生の給料の20倍も30倍ものお金をアメリカから送金できる」という話が、現金収入を求める者の一攫千金(いっかくせんきん)の夢をかりたてた。

パイオニア移民たちの多くは不平不満を言えずに従順に働き、白人労働者の労働場所をおびやかす脅威とみなされて排斥(はいせき:差別)されながらも、黒人や中国移民に代わる便利な労働力としてアメリカ西海岸に仕事の場を広げていった。
彼らを送り出した田舎の貧しさが“忍耐”を支えたのだろうか?・・・『仕方がない』と耐えた。
極東の小さな島国の農耕民族の遺伝子が彼らを勤勉に働かせたのだろうか?・・・『仕方がない』が口癖になった。

やがて、パイオニア移民はコミュニティーを広げ、日本から嫁を迎えて『日系二世(ジャパニーズアメリカン)』と呼ばれる子どもたちを育てていった。
アメリカで生まれた子どもは“アメリカ国籍”だが、パイオニア移民の家庭では「日本人として恥ずかしくないように!!」と日本的なしつけがされた。

Pledge of allegiance
Pledge of allegiance 公立小学校の朝礼(出典The Asia-Pacific Journal)
“私はアメリカ合衆国の国旗と神の下で、全ての人に自由と平等をもたらす
ひとつの分かちがたい国家である共和国に忠誠を誓う”

アメリカではスポーツにしろ研究開発にしろ“国家に貢献できる(役立つ)とみなされた人材”であれば、人種を問わずに手厚く保護されて無料進学のチャンスにも恵まれる・・・というのは1960年代以降の話で、1950年代の有色人種にはガラスの天井があった。
「せめて対等になるには学問しかない」と言われて(肌で感じて)育つジャパニーズアメリカンたちは、勤勉に働く日本人の姿を目にして、家の中では“日本人として”同時に外では“アメリカ人として”二つの祖国をもつことになった。
ジャパニーズアメリカンが“勤勉で優秀”というステレオタイプの評価をアメリカで得た1930年代…西洋列強の帝国主義に少し遅れて富国強兵政策をおしすすめた日本は、その経済圏をアジアに拡大した。いわゆるアジア植民地への後発参加である。ABCD列強との利害関係がこじれる中、ついに日本帝国軍はアメリカ領パールハーバーを奇襲した。

Hitoshi Sameshima
米軍の
Hitishi Sameshima

   日米対戦は“二つの祖国”を持つ
  日系二世や三世の生活を一変させ、
     アメリカへの忠誠も従軍も拒否する道,
           日本への忠誠と従軍の道→
← アメリカへの従軍の道…と、        
   過酷な選択肢が、彼らにつきつけられた。

小野正己
日本軍の
Masami Ono

このサイトで使用している画像は、鮫島等さんと小野正己さんから頂いた写真と、すでにパブリックドメイン状態のものです。画面右上の【太平洋の掛け橋】をクリックすると日米移民の略史が別画面で開きますので鮫島等さんのお話と並べてご覧下さい。参考資料:TV Fan誌 ISBN 1-881161-16-1

【サイト制作にあたり】ロサンゼルスの全米日系人博物館で日本からの修学旅行生に展示案内をするボランティア活動の時(2004~2007年)に鮫島等さんと知り合いました。
ある日、等さんが「ご不浄はこちらです」と、日本から来た高校生に一言。日本からの高校生はきょとん。
私は思わず「トイレはこっちですよ。」と口をはさみました。

日本語学校の展示の前で「朕おもうに我が皇祖皇宗…」と直立不動の姿勢で語り始めた等さんに、「すみません、この子たちは教育勅語を知りません」と断ると、今度は等さんがきょとんとしました。
等さん(1921年アメリカ生まれ)に昔の日本男児の姿と大和魂を見ました。2014年5月15日、安らかにお眠りください。長年のご尽力に心より感謝を申し上げます。