江戸の侍の時代が終わって日本が大きく変化する明治〜大正時代というのが私の両親の時代でした。
日本が明治だったころのヨーロッパ諸国は、急激な産業革命と植民地から吸い上げる富で、アフリカやアジア諸国よりも先を進んでいました。
  明治政府はそれら先進国に追いつこうと“富国強兵政策ふこくきょうへいせいさく”をおしすすめ、一足先にアジアの国々を植民地にしていた先進諸国のまねをして、朝鮮半島や清(今の中国)や露西亜(今のソ連)の領土でもめごとをおこしました。

      ↓中央が両親

日清戦争〜日露戦争〜第一次世界大戦でかろうじて勝った日本は、やがて『ヨーロッパ人に支配されるアジア諸国を解放してアジア人がともに栄える商業圏を築こう』というスローガンかかげてアジアの天然資源を手に入れようとしました。結局、国際社会で孤立した日本はアメリカ,イギリス,チャイナ,オランダなどの国々を相手に世界大戦に突き進んでいきました。

今考えれば、無茶なことだったんですよね。「日米の経済力の格差を知っていれば、アメリカへの奇襲という無謀なことはできない」とか、今ならば非難できますが…、私が学生の頃はそうじゃなかった。…今のお母さんたちは「息子を戦場に出したくない」と口に出して言えますよね。でも、65年ほど前の日本は国を挙げて戦争をしていたので、私の母も一枚の赤紙で召集されていく息子を日の丸の小旗をふって送り出すしかなかったのですよ。

教育って恐ろしいですよね。今だからこそ「国と国は互いにリスペクトしあって仲良くしなくちゃいけないよ。」と語れますが、私が子どもの頃はちがっていました。当時は「お国のために戦争しているんだ」教育されていたわけですから。当時(1930〜40年代)の子どもの目に兵隊さんは“ヒーロー”でしたよ。学校でも兵隊さんの訓練が授業としてありました。 

輜重輸卒しちょうゆそつが兵隊ならば蝶々トンボも鳥のうち、電信柱に花が咲く』と歌われて、軍の後方支援にあたる兵站へいたんは軽視される風潮がありましたが、両親に「これからは世界貿易の時代が来る」と言われていましたので、経済の勉強に強い大学をめざしました。

第二次世界大戦の初めの頃は学生は兵隊に行かなくてもよかったのですが、戦線が拡大して学徒動員がくとどういんということになりました。

21歳の時にビルマ(現在のミャンマー)へ主計少尉として出征。上官の命令を清書して伝えたり、物資を手配したりという事務仕事が中心でした。日本国内にいるときには知らされていなかった戦況の悪さを肌で感じましたが「お国のために命がけでここを守れ」という上官の命令を守るのが当然と考えて戦死の覚悟をしていました。ところが、上官は撤退命令を出さずに自分だけ戦線を離れてしまいました。そんな中で、一緒に逃げた戦友が爆死したのですから22歳の私はそれまで信じていたものが一気にくずれて人間不信になりました。

終戦後一年の捕虜生活の後に復員と復学をはたしました。大学にいるときに屋根瓦製造会社を設立しましたが、多額の借金を抱えて閉鎖。「借りたものを返すのは当然」という信念で死に物狂いで働きました。戦地で死んでいった人の無念を思うと、自分には命があるだけでありがたいと思えますからね。

借金返済後、1952年に結婚。父の紹介で石井忠平氏と出会い、食品商社の東京共同貿易を2人で設立しました。ロサンゼルスの共同貿易 (1926年創立) の日本側窓口でしたが、石井氏の病後、1964年に妻と1男1女を連れて渡米しました。第二次世界大戦が終わって20年経ってはいましたが、家族を連れてアメリカに移住するにはそれなりの勇気と覚悟が必要でした。でも…不安よりも「日本食をアメリカに広めよう」という夢や希望の方が大きくふくらんでいました。

『夢の実現に向かって日本人の誇りと大和魂で新地開拓の苦労を克服しよう』と言えば、かつて世界大戦に突入した神風精神の源のようで時代に合わないようですが、大和魂とか日本人の誇りが戦後日本の急激な経済成長を生み出したわけでもありますから否定できませんよね。どうも最近の日本の若者には元気がありません。おとなしくこじんまりとまとまっていて元気がありません。今の若い日本人を見ると『もっと日本人の誇りを持ってエネルギッシュに活躍して欲しい。』と思います。

私は今も、共同貿易の社長として超低温冷凍魚をアメリカに届けて美味しいジャパニーズフードを世界に広める夢の実現にまい進しているところです。

また“パンアメリカン日系協会”の活動を通して「海外移民の苦労に対する日本政府の援助をお願いするだけではなく、海外の日本人の意思を選挙という形で日本の政策に反映させることが大切だ。」と考えるようになり、海外選挙を実現させました。選挙の権利の大切さをしっかり勉強して行使して欲しいものです。

【補足説明】
テレビがなかった頃の日本人の行動や意思に強く影響したのは新聞や雑誌です。
国立公文書館のアジア歴史資料センターで『写真週報』の閲覧が可能になりましたので、
ぜひ、下の写真をクリックして『写真週報』にみる昭和の世相にリンクしてください。