日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
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中国大陸との交流が盛んになった8世紀(710年)、現在の奈良に「平城京」という都がつくられました。奈良時代と呼んでいます。唐の都、長安にならったこの都には、東西南北に碁盤の目のように規則正しく道が敷かれました。中央には、幅70mの朱雀大路(すざくおおじ)が南北に真っ直ぐ伸びていました。朱雀大路を中心に東側を左京、西側を右京といいます。広さは、東西に約6km,南北に約5kmにおよびました。中央の北にあった平城宮には天皇が住み、政治を行う役所が置かれました。唐の法律にならい、天皇を中心とする支配が進められ、太政官(だいじょうかん)のもと、宮内省や大蔵省などの8つの役所が置かれました。
724年、聖武天皇が即位します。当時、地震,凶作,九州から全国に広がりをみせた伝染病,貴族による反乱など、さまざまな災いが各地に蔓延していました。聖武天皇は、次々と起こる災いに悩み、その救いを仏教に求めます。「鎮護国家」としての仏教です。
741年、聖武天皇の詔で、国分寺と国分尼寺が全国につくられました。さらに743年、国を挙げての大事業に取り組みます。それは奈良の東大寺に、大きな仏像をつくることでした。記録によれば、大仏の材料は日本中から集められました。銅は、今の東京や埼玉、鳥取や山口などから運ばれました。そのほか、鉄,すず,水銀などが全国から集められました。今の宮城県からは、日本で初めて金が産出され、この金が大仏に塗られることになりました。全国から集められたさまざまな材料と、当時の最新技術と、のべ260万人もの労力と9年の歳月を費やして完成したのが、盧舎那仏座像(るしゃなぶつ・ざぞう):奈良の大仏です。詔から9年後の752年4月、聖武天皇はすでに娘(孝謙天皇:母親は光明皇后で藤原鎌足のひ孫)に譲位していましたが、開眼供養(かいげんくよう)の儀式が盛大に行われました。
注:通称「奈良の大仏」は、1180年(源平争乱期)と1567年(戦国乱世)に焼失して再建されました。私たちが今、目にしているのは1709年に再建されたもので、台座や腹部と指の一部が奈良時代当時のものだといわれています。
遣隋使から遣唐使と呼び名は変わりましたが、当時の中国への旅が、荒海を渡る危険なものであることは同じでした。遣唐使は、命がけで優れた中国の文化を日本に伝えようとしたのです。742年、遣唐使とともに唐に渡り、高僧、鑑真のもとを訪ねた二人の日本人の僧がいます。二人は鑑真に、「僧が守るべき決まり、『戒律』を日本に伝えていただきたい」と願い出ます。「だれか日本へ行く者はいないか」。鑑真は弟子たちに尋ねますが、みんな危険な船旅を恐れて黙っています。「皆が行かぬなら私が行こう」。そう宣言した鑑真はさっそく日本に向けて船出します。しかし、嵐で何度も失敗し、ようやく日本にたどり着いたのは、6度目の渡航挑戦、753年でした。奈良に着いた鑑真は手厚く迎えられ、東大寺で戒律を伝えました。奈良にある唐招提寺は、759年に鑑真が建てたものです。鑑真の時代から残る講堂。鑑真はここに日本人の弟子を集め、中国から持ってきた経典を読ませたり、直接教えを説いたりして、多くの僧を熱心に育てました。寺の奥まったところに、国宝の鑑真和上坐像がまつられています。鑑真が亡くなる直前に、弟子たちが作らせました。鑑真の姿をのちの世に伝えようとしたのです。763年、鑑真はこの寺で亡くなりました。76歳でした。この鑑真と弟子達の話はNHKで『天平の甍』というドラマにされました。
奈良時代には、国際色豊かな文化が花開きました。元号にちなみ「天平文化」と呼びます。その代表的な品々が東大寺の倉庫:正倉院に保存されています。校倉造(あぜくらづくり)というすぐれた建築様式で、高温多湿の日本の風土の中、貴重な品々を今に伝えています。正倉院には、聖武天皇の没後、光明皇太后によって、日々の愛用品が収められました。ペルシャ風の模様が細工された世界に唯一の五絃の琵琶には琥珀や瑠璃や南の海の貝などを使った緻密な細工が施されています。聖武天皇が楽しんだといわれる碁盤と石もあります。これらは、http://jasakura.com/nihonshi/5nara.htmから宮内庁公式サイトで閲覧可能です。遣唐使や留学生によって中国から持ち帰られたと考えられています。
当時の中国には、ヨーロッパや西アジア,インドなどから、さまざまな美術工芸品が伝わっていました。奈良時代の日本は中国から大きな影響を受けるとともに、中国を通して世界とつながっていたのです。
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