日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
sakamoto
後醍醐天皇の建武の新政に向けられた不満を受け、足利尊氏は別の天皇を即位させ、京都に幕府を開きます。後醍醐天皇は京都から奈良吉野に逃れ、京都の朝廷と対立します。京都の「北朝」と吉野の「南朝」の争いは、およそ60年間続きました。
権力の座をめぐり、武士と貴族が争いを重ねる一方で農業や商業が発達し、人々の暮らしは大きく変わっていきます。
南朝と北朝の対立に終止符を打ったのが、三代将軍の足利義満(尊氏の孫)です。義満は貴族の長である“源氏長者”と、武士の棟梁である“征夷大将軍”の官位をえて、京都の室町という場所に「花の御所」とよばれる豪華な館を造りました。この地で政治を行ったため、足利氏の幕府は「室町幕府」と呼ばれるようになりました。室町幕府には将軍を補佐する「管領(かんれい)」が置かれました。管領になったのは有力な守護大名です。管領の下には侍所,政所,問注所などが置かれ、地方には守護や地頭,関東には鎌倉府が置かれ、各地を支配しました。政治のしくみが整い、室町幕府は朝廷をしのぐ権力を持つようになります。
足利義満は、中国、当時の明に使者を送り、貿易をしようとします。貿易によって大きな利益を得るだけでなく、大国、明との関係を持つことで、自らの地位を確固たるものにしようと考えたのです。しかし明の皇帝、洪武(こうぶ)帝は、義満の申し出を認めませんでした。最初に使者を送ってからおよそ30年後、義満は再び明に使者を送りました。やがて、義満が待ち望んでいた明からの国書が届きます。そこには「国王」とありました。義満は明の皇帝から、日本の「国王」であると認められたのです。源氏長者と征夷大将軍の官位によるものです。当時の明との貿易は、日本が明の皇帝に貢物を送り、それに対して、明の皇帝から高価な品々をもらうというものでした。日本から送ったものは、刀や槍,扇,硫黄(いおう:火薬の原料に重宝された)など。特に刀は明で大変な人気がありました。明からのお返しは、明銭(銅のお金)や絹などでした。
義満によって始められた明との貿易は、室町幕府に莫大な富をもたらしました。この利益で建てられたのが京都、北山の鹿苑寺金閣(ろくおんじきんかく)です。当時としては珍しい3層3階建てです。1階には貴族の建物の造りが取り入れられています。その一つが「しとみ戸」。戸をつり上げると、部屋の中に光を取り込むことができます。2階には武士の建物の造りが見られます。建物の内と外を仕切るのは、武士の家で使われていた「引き戸」です。3階の丸みを帯びた窓は、寺の窓と同じ形。貴族、武士、仏教の文化を合わせ、足利義満は新しい文化を生み出そうとしたのです。
八代将軍足利義政(義光の孫)のころになると、禅宗の影響が強く現れます。京都、東山の慈照寺銀閣(じしょうじぎんかく)。美しい庭と、簡素で気品がある建物は、この時期の文化の特徴を表しています。銀閣の近くに建つ東求堂(とうぐどう)。中は、ふすまや障子などで仕切られ、床には畳がしきつめられています。また、書き物をするための「書院」や、「違い棚」といった、部屋のかざりが整えられています。こうしたつくりを「書院造(しょいんづくり)」といいます。それまでの貴族や武士の暮らしを描いた絵をみると、部屋には間仕切りがなく、「御簾(みす)」とよばれるすだれなどを使い、部屋を仕切っていました。床は板の間で、座ったり寝たりする所にだけ、畳などを敷きました。室町時代に生まれた「書院造」は、現在の和室の原型になっています。
日本の古典芸能である「能」は、室町時代の中ごろ、観阿弥と世阿弥の親子によって完成されました。鼓や太鼓の楽器に合わせて歌や舞を舞う猿楽(さるがく)に物語を加え、独特の動作で人の気持ちを表したのが能です。義満はこの能を手厚く保護し、芸術として高めました。
日本文化を象徴する華道や茶道や能などの起源がこの時代にあります。
水墨画家の雪舟は、中国に渡って水墨画を学び、さらに独自の作風で四季折々の日本の美しさを描きました。
手作業で物を作る人を表す「職人」という言葉は、室町時代に生まれました。農作物や、職人が作った製品は、都や各地の「市(いち)」で売られました。そこでは、明との貿易で入ってきた中国の貨幣が使われることも多くなりました。京都の町では、貨幣による物の売り買いが盛んになり、土倉(どそう)、酒屋と呼ばれる裕福な商人、そして寺院が金融業を営みました。お金を貸して利子を取ることで大きな利益を得ました。都市をはじめ各地に貨幣が普及して経済活動が活発化しました。
1467年、京都で大きな争いが起こりました。「応仁の乱」です。争いのきっかけは、室町幕府八代将軍足利義政の後継ぎをめぐる対立でした。足利義政は、はじめ、弟の義視(よしみ)を後継ぎにすると決めていました。しかし、義政と日野富子の間に息子が生まれると、義視に代えて息子を後継ぎとします。将軍の座をめぐり対立する弟の義視と息子の義尚、それぞれに有力な大名が味方し、戦いが始まりました。 「西陣」の名は、この乱で西軍総大将である山名宗全が堀川よりも西に陣をおいたことに由来します。
この争いは10年ほど続き、京都の町は焼け野が原になりました。自分の領地を守るのに懸命な守護大名に代わって実権を握る者も現れました。それらが、敵と味方に入り乱れて戦いを続け、戦乱は地方にも広がりました。応仁の乱をきっかけに、世の中は戦国時代へと向かっていきました。
日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
sakamoto