日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
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794年、桓武天皇は、仏教に関係する人々の政治干渉を減らそうと、都を平城京から長岡京を経て、平安京に遷(うつ)しました。平安遷都(せんと)です。政治文化の中心が平安京にあった400年間ほどを平安時代と呼んでいます。
西暦804年、平安時代最初の遣唐使が中国をめざしました。その中に、日本の仏教を担うことになる二人の僧がいました。最澄と空海です。二人は中国でそれぞれ新しい仏教を学びました。帰国した最澄は、今の滋賀県の比叡山に延暦寺を建て「天台宗」を開きました。空海は、今の和歌山県にある高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を建て「真言宗」を開きました。
平安時代の中ごろ、大化の改新以降権力を掌握してきた藤原氏の政治実権が頂点に達していました。なかでもひときわ大きな権力を持っていたのが、藤原道長です。道長は、まず自分の娘を天皇の后(きさき)にして、天皇家の親戚になります。后である娘と天皇のあいだに男子が誕生すると、その子を即位させます。こうして天皇の祖父となった道長は、天皇に代わって政治を行う摂政となり、さらに大きな力を手中に収めました。道長は息子も重要な役職に就かせることで、藤原氏の権力をより強固なものにしました。そして摂政の職を息子の頼通(よりみち)に与えたのです。頼通はその後、天皇が成人すると関白となり、天皇を補佐して政治を続けました。
この「摂政」と「関白」が実権を握る政治のしくみを「摂関政治」といいます。摂関政治の権力の絶頂にあった道長が詠んだのが『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』です。
この時代、日本の風土や暮らしに合う文化が生まれます。唐風に対して国風文化と呼びます。その一つが、仮名文字です。『竹取物語』の原文に、それまでの『万葉仮名』と仮名文字が見られます。竹取物語の書き出しの部分は中一国語の教科書に載っています。仮名文字は、感じたままを表現する言葉として高級女官に広まりました。仮名文字の由来はhttp://jasakura.com/nihonshi/6heian1.htmからのリンクで確認して下さい。
第66代一条天皇の二人の后の内の一人(藤原道長の兄の娘・中宮定子)に仕えていたのが、清少納言です。中学部の教科書にある枕草子からは、平安貴族の豪華な暮らしぶりや自然観が伝わってきます。
第66代一条天皇のもう一人の后(道長の娘)に仕えたのが、清少納言をライバル視していた紫式部。「どの時代でしたかさだかではありませんが…、天皇に仕える大勢の女性のなかで、さほど身分が高くはなくて、特別天皇に愛されている方が…」という源氏物語の冒頭の部分は高校の国語の教科書に載っています。
枕草子は「おかしのエッセー」 : 源氏物語は「もののあはれ(憐れ)の文学」
と対比され、定子サロンを眼の敵にしていた紫式部の様子が「紫式部日記」に見られます。
現地校の古典で学ぶシェークスピアWilliam Shakespeareは16世紀の登場人物です。彼より400年以上昔の日本で“珠玉の日本語作品”が生まれていたことは誇らしい限りです。
貴族の装束や寝殿造りの様子も、教材サイトからのリンクで確認して下さい。
寝殿造りを今に伝える建物が宇治の平等院と広島の厳島神社です。厳島神社は、後に登場する平清盛の保護で寝殿造りに完成され、ユネスコの歴史的建造物に指定されています。
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