日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
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貴族の権力が頂点を極めた時期に、都では貴族の身辺護衛に当たる「さぶらふもの(侍)」が現れました。
律令制が崩れていく地方では、土地を経営する有力者(豪族)のもとに武器を手にするものが結束し、徐々に勢力を拡大して政治的発言力を強めました。馬に乗り、弓矢を取って戦う「武士」の誕生です。土地の支配をめぐる戦いに備えて結束していった武力集団は、棟梁(とうりょう)に天皇の子孫を仰ぎました。有名なのが桓武平氏と清和源氏です。
1159年、都で大きな争いが起こりました。「平治の乱」です。それを鎮めたのが、平清盛でした。最初に武士のトップに立った清盛は、天皇や貴族の信頼を得て出世を重ねていきます。そして、貴族の最高の地位「太政大臣(だいじょうだいじん)」にまで登りつめました。平氏の歴史をつづった『平家物語』には、当時66あった国のおよそ半分を平氏一門が支配した、と書かれています。さらに、清盛の娘が高倉天皇の皇子(後の安徳天皇)を産み、清盛はその地位を一層確かなものにしました。
しかし、平氏の政治を批判する勢力が次第に増えていきます。その中心の一人が、源頼朝です。やがて東国(とうごく)の武士たちの支持を得た頼朝は、鎌倉を拠点にして急速に大きな勢力を持つようになりました。1181年、平清盛が病で亡くなりました。一族の柱を失った平氏は、次第に源氏に追い詰められていきます。平氏最後の戦いの場は、今の関門海峡、壇ノ浦でした。「平家にあらずんば人にあらず」と豪語するほど権勢を誇った平氏は平清盛の死からわずか4年で滅亡しました。この栄枯盛衰を和漢混交文で語ったのが『平家物語』という軍記物です。那須与一の“扇の的”は中二国語に載っています。
源頼朝は、地方の国ごとに、軍事や警察の役割を果たす「守護」,土地の管理や年貢の取り立てなどを行う「地頭」を置きました。
この時期に登場するのが源義経(NHK大河ドラマのタッキーの役)です。戦果を上げながらも兄に討たれる義経と、彼に忠義をつくす家臣の姿は、様々な伝説や、判官贔屓(ほうがん びいき)という日本的な心情を表す言葉も生み出しました。900年前の東北地方にユートピアを築いた奥州藤原三代の栄枯盛衰(義経主従をかくまうことで兄弟が敵味方に分かれ、やがて頼朝によって滅ぼされるまで)を知っていれば、松尾芭蕉の奥の細道の平泉の章(中一国語)の読みが深くなります。
また、13世紀のイタリア商人マルコ ポーロMarco Poloの“ジャパングは黄金の国”という伝説が平泉の中尊寺金色堂に由来するという説もあります。
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