日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
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明治政府は、西洋の国々に倣った(模倣した)近代国家をめざして政治と社会のしくみを一変させる改革を次々と進めていきます。
1867年、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返し、天皇中心の政治が始まりました。新政府は翌年「五箇条の誓文」を公布してこれからの政治の方針を示し、そして元号を「明治」と改めます。
明治元年に日本からハワイへの正式移民が出航しました。ジャパニーズアメリカンの始まりです。太平洋の西と東の簡単な歴史は「大和魂を持ったアメリカ人」にまとめましたので参照してください。
新生・明治政府は、西洋の国々に学ぼうと、アメリカとヨーロッパ諸国に使節を送りました。岩倉具視を中心とした100人を超える使節団です。岩倉使節団は、1871(明治4)年11月に日本を出発。まず、アメリカを訪問し、その後イギリスに向かいます。イギリスに滞在したあと、使節団はフランス,ベルギー,オランダ,ドイツ,ロシア,デンマーク,スウェーデン,イタリア,オーストリア,スイスを訪問しました。この訪問中に、一度に大量の製品を生み出す工場など、西洋の進んだ技術や政治のしくみ、文化を知ることになります。ヨーロッパの国々を回ったあと、完成したばかりのスエズ運河を通り、インド洋を経由して日本に帰りました。2年に及ぶ旅で、西洋の文明や文化を目の当たりにした使節団。その後の日本の発展に大きな影響を与えました。西洋の様子をいち早く日本に紹介した一人が、福沢諭吉です。諭吉は江戸時代の終わりから明治にかけて、『西洋事情』という本を出版しました。アメリカやヨーロッパに行った経験を生かし、見て聞いて調べたことや驚かされたことなど、西洋の様子を10冊にわたって詳しく書いています。政治や議会など国の基本的なしくみをはじめ、学校、新聞、病院、ガス灯などについても紹介しています。さらに、国ごとの歴史や特徴も説明しています。『西洋事情』は、無断で書き写した「偽版(ぎはん)」と呼ばれる偽物が出回るほど人々に人気がありました。
岩倉使節団の中にいた大久保利通は、イギリスで造船所などの工場を見て「うわさに聞いていた以上だ。いたるところに工場があり、煙は天高く上っている」と日本への手紙に書き残しています。西郷隆盛に当てた手紙には、「街ごとに工場がある。リバプールの造船所、マンチェスターの木綿工場、グラスゴーの製鉄所…」の記述が見えます。大久保はイギリスの強さ、国力の大きさを、こうした工場に見い出しています。さらに大久保たちは、「博覧会」を見学しました。そこには最新の技術を使った、ヨーロッパの国々の工業製品や美術品などが出品されていました。日本に戻った大久保たちは、このときに見た西洋の国々を手本に、新しい国づくりに力を注ぎます。産業を発展させる「殖産興業」と、兵力を強めることをめざす「富国強兵」策です。
明治政府がめざしたのは、政府が全国を直接支配する「中央集権体制」の国家でした。そのための重要な改革が「廃藩置県」です。大名が支配してきた全国の各地の「藩」を廃止。代わりに「県」や「府」を置き、政府が任命した「県令」や「府知事」を派遣しました。また、それまでの幕府の役職を廃止し、「太政官(だじょうかん)」を置く新たな組織が作られました。その重要な役職には、西郷隆盛など、新政府の成立に功績があった薩摩藩や長州藩出身の者が就きました。そのためのちに、「藩閥(はんばつ)政治」と呼ばれます。
江戸時代の身分制度も廃止されました。「四民平等」(“市民”ではなくて“四民”です)です。旧藩主や、朝廷に仕える公家は「華族」、武士を「士族」、百姓や町民は「平民」となりました。そして苗字が許され、住居や職業など、それまでの身分による制限は改められました。こうした、矢継ぎ早に推し進められた一連の大改革を「維新」といいます。
明治政府は、西洋の国々に追いつこうとさまざまな西洋文明を取り入れます。人々の暮らしは大きく変化しました。江戸時代には口にしなかった牛肉も食べるようになりました。「文明開化」です。
暦も変わりました。政府が国民に示した明治5年11月9日の文書には、太陰暦をやめて太陽暦にすること、明治5年12月3日をもって明治6年1月1日とする、と記されています。太陽暦を取り入れたことで、日本も西洋と同じ暦になったのです。このとき、一日を24時間で表わすことも定められました。この文書には、0時から昼の12時台までを午前、昼の1時から深夜12時までを午後にすると記されています。これによって、人々は現代と同じように、正確な時刻を意識し始めました。
1872(明治5)年、官営模範工場として群馬県富岡市に富岡製糸場が造られました。それまで主に女性が手作業で紡いでいた絹の糸「生糸(きいと)」が重要な輸出品となったため、最新式の機械を備えた大規模工場で生糸の生産を質、量ともに高めようとしたのです。長さ100mを超えるレンガ造りの建物に、蒸気で動くヨーロッパの機械が300台設置されました。この工場は、日本の生糸産業を担い、発展・普及させる人たちを育てる役割も持っていました。その後、民間の工場として100年以上生糸を生産し続けます。
1872(明治5)年9月、東京の新橋と神奈川県の横浜、およそ29kmのあいだに日本最初の鉄道が開通しました。平均時速は32km。新橋-横浜間をおよそ50分で結ぶ、当時、最も速い乗り物でした。人々は、海を行く蒸気船にちなみ、「陸蒸気(おかじょうき)」と呼びました。建設のために必要な資金や技術に加え、機関車、客車、線路やまくら木、燃料の石炭などは、すべてイギリスから輸入したものでした。鉄道は2年後に神戸-大阪間、さらに3年後には大阪-京都間で開通し、その後、全国各地で建設されていきました。
1874(明治7)年、福沢諭吉をはじめとする、時代をリードした知識人たちが雑誌を創刊しました。「明六雑誌」です。明治の初めには、こうした雑誌や新聞が次々と創刊されました。
長野県松本市に、重要文化財「開智(かいち)学校」の建物があります。1876(明治9)年に建てられ、1963(昭和38)年まで使われていました。ガラスの窓、入り口に施された天使の飾りなど、西洋の様式を取り入れた校舎です。政府は1879年、国民すべてが学ぶことをめざし、学校教育に関する「教育令」を公布しました。特に小学校が重視され、4年間で最低でも16か月は学校で学ぶことが義務づけられます。また1877年には初めての国の大学、東京大学が設立されました。政府は義務教育を整備する一方で、高等教育にも力を入れ始めました。
明治政府は北海道の開発にも力を注ぎました。「開拓使」を置いて、土地を拓き、アメリカから輸入した機械で大規模な農業が始められました。開拓を行う人々の村もつくられ、「屯田兵(とんでんへい)」と呼ばれる多くの開拓民が北海道に渡りました。蝦夷地の立場から見れば、アイヌの生活がさらに圧迫されるということです。
このほかにも、鉱山や造船所など、民間の手本となる国の工場、「官営工場」が各地に造られ、これらは産業の発展の礎になりました。
官営工場の開設には外国人技術者の雇い入れや機械の購入が必要ですし、鉄道や学校の開設には巨額の資金が必要です。江戸時代のように、農作物を大坂や江戸の蔵屋敷に集めて、役人が換金するのでは国家規模の事業に間に合いません。
明治維新を推し進める新政府は、年間予算に沿った国家としての資金の確保が必要となり、税の徴収は物納から金納に変わりました。
四民平等といえば聞こえがいいのですが、武士階級がなくなり“国民皆兵”による天皇制軍隊が発足して、百姓にも“徴兵に応じる義務”が課せられるようになり、税をお金で納めるようになり、農民の暮らしも一変しました。
倒幕に貢献した旧・薩摩,長州,土佐,肥前藩士による専制的な明治政府の政策は特権を奪われた士族ばかりでなく、農民の不満も強めました。
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