日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
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このころ、士族はかつての特権を政府に奪われ、不満を募らせていました。自由民権運動は、こうした士族の不満を背景に広まっていったのです。運動はやがて士族だけでなく、農民や商人のあいだにも広がり、次第に激しさを増していきました。それに対して政府は、弾圧を加えていきます。演説会を止めに入った警官に対して、民衆が激しく抗議している絵がのこされています。運動が高まるなか、1881(明治14)年、伊藤博文を中心とした政府は、1890年に国会を開くことを約束しました。
土佐藩出身の板垣退助は、1874(明治7)年、政府に国会の開設を求める「民撰議院設立建白書」を提出しました。薩長を中心とした「藩閥政治」をやめ、国民が政治に参加することを求めたのです。「自由民権運動」の始まりです。板垣は、反乱や武力ではなく、演説会や新聞を使って運動しました。「自由」とは、「人は幸福を求める権利を誰からも奪われないこと」。「民権」は、「国民が政治に参加する権利」のことです。
1881(明治14)年、政府が国民に国会を開く約束をすると、伊藤博文は「憲法」をつくる準備を始めました。そして、憲法や議会について調査するため、ヨーロッパに向かいました。伊藤が注目したのは、ドイツの憲法です。国の君主である皇帝と、そのもとにある政府が大きな力を持っていたからです。ドイツで憲法を学んだ伊藤博文は、「ここで国家のしくみを見つけた」と、日本政府に報告しています。帰国した伊藤を中心にして、ドイツの憲法を参考に日本独自の憲法案が作られました。
1882(明治15)年、政府は「日本銀行」を設立して、企業への資金援助などを行う金融制度を整えます。民間では実業家の渋沢栄一が、大規模な紡績工場を造りました。このころ、次々と大規模な会社ができるようになります。経済の発展を支える交通の整備も進められました。1907年には、鉄道の総延長は8000km、ほぼ全国に広がったのです。造船所もできました。長崎の造船所は官営としてスタートしましたが、1887年には民間の会社となり、以後、日本の経済を支えました。
江戸幕府が西洋の国々と結んだ条約は、治外法権を認め関税自主権がない、という不平等な条約でした。この条約を改正することは明治政府にとって大きな課題でした。1871(明治4)年、岩倉使節団はアメリカと条約改正の交渉を行おうとします。しかし日本の法律が未整備であることなどを理由に、交渉は行われませんでした。
1883年、条約改正の責任者井上馨は東京に鹿鳴館を建て、外国人を招いて毎晩のように豪華な舞踏会を開きました。日本が文明国になったことを示し、条約改正をスムーズに進めようと考えたのです。そのさなか、事件が起きます。1886(明治19)年10月、横浜から神戸に向かっていたイギリスの貨物船ノルマントン号が、和歌山県の潮岬沖合で沈没したのです。乗っていたのはイギリス人やドイツ人などの乗組員と、日本人の乗客。しかし救助されたのはイギリス人とドイツ人だけでした。裁判は日本にあるイギリスの領事館でイギリスの法律に基づいて行われ、船長以外は無罪となり、船長の刑罰も軽いものでした。この「ノルマントン号事件」をきっかけに、条約を一刻も早く改正することが望まれるようになりました。
1889(明治22)年、国会や選挙について定めた初めての憲法は、天皇が国民に与える形で発布されました。「大日本帝国憲法」です。天皇が国を治める権限を持ち、政府が国民をまとめていくこと。さまざまな制約はあるものの、選挙によって選ばれた国民の代表が政治に参加することが初めて定められました。その憲法のもと、1890(明治23)年、第1回の国会が開かれました。こうして日本は、憲法と議会を備えた近代国家としての体裁を整えたのです。
1892(明治25)年、外務大臣になった陸奥宗光は、条約改正の交渉に乗り出しました。交渉相手に選んだのは、イギリスでした。当時のイギリスは、日本と同様に、東アジアへの進出を強めているロシアを警戒していたため、利害が一致していたのです。イギリスとの交渉の末、1894年(日清戦争の直前)に、陸奥は遂に治外法権の廃止に成功します。しかし、関税自主権の回復がまだ残りました。
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