日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
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1880年代の東アジアでは、朝鮮半島の支配を巡って日本と清が対立を深めていきました。1894(明治27)年、日本と清のあいだで戦争が始まります。「日清戦争」です。日本は勝利を重ね、翌年、山口県の下関で講和会議が開かれました。ここで結ばれた「下関条約」で、清は、朝鮮の独立を認めること、日本に遼東半島、台湾などを譲り、多額の賠償金を支払うことが決められました。しかしその後、ロシアがフランスとドイツとともに、遼東半島を清に返すよう要求してきました。「三国干渉」です。日本はこれを受け入れざるを得ませんでした。
19世紀後半以降、欧米の国々が植民地や勢力範囲を拡大するなか、ロシアは中国東北部に進出、朝鮮半島にも勢力を広げようとしていました。一方、朝鮮半島に進出しようとする日本。1904(明治37)年、両国のあいだで戦争が始まりました。「日露戦争」です。戦争は1年半にわたって続きました。ロシアは遠くヨーロッパから、日本近海に軍艦を送ることにしました。世界最強といわれていた「バルチック艦隊」です。これに対し日本は、司令長官東郷平八郎率いる連合艦隊が迎え撃ちました。1905(明治38)年5月、対馬沖で、ロシアのバルチック艦隊と日本の連合艦隊が戦います。この海戦は日本側の一方的な勝利に終わります。日露戦争では、多くの犠牲を出しながらも日本は大国ロシアを破りました。これによって日本は国際的に認められるようになります。1905年9月、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれました。ここで、朝鮮半島における日本の優越権などを決めた「ポーツマス条約」が結ばれました。
歌人の与謝野晶子は、日露戦争に行く弟を想い、「君死にたまふことなかれ」を発表しました。「あゝおとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしへしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや…」。晶子は、戦争に反対する気持ちを、この歌に込めたのです。
1904(明治37)年に始まった日露戦争で大国ロシアを破ったことから、日本の地位は上がり、条約改正を有利に進めることができるようになりました。そのときの外務大臣小村寿太郎は、1911年、関税自主権を回復することに成功しました。不平等条約を締結してから50年余りが経っていました。こうしてアジアの中に、欧米に肩を並べるまでになった国、日本が誕生したのです。
日露戦争後、日本は韓国の外交権を奪い、「統監府(とうかんふ)」を設置しました。初代統監となったのは伊藤博文です。日本政府は韓国を保護国とし、さらに中国東北部(満州)の権益を守ろうとしたのです。その後、日本政府は、韓国と不平等な条約を次々と結びました。そして1910(明治43)年、「韓国併合」が行われたのです。日本による韓国の支配は、太平洋戦争が終わる1945(昭和20)年まで続きました。
明治時代は、西洋の進んだ技術を積極的に取り入れ、近代的な工場や鉄道を次々に建設していった時代です。また、郵便や金融などの制度も整え、日本はめざましい変化を遂げました。
政府はヨーロッパで開かれているような博覧会を、日本の国内で開きました。「内国勧業博覧会」と名付けられ、日本国内の工業製品などを展示して、技術の交流を図り、産業の発展を促したのです。また、兵器を作る軍需工場も東京と大阪に造られました。さらに、郵便の制度も整いました。イギリスなどの国で行われていたシステムを取り入れ、全国どこでも均一の料金で手紙が出せるようになりました。
福岡県八幡村(やはたむら)。今の福岡県北九州市。この地に造られたのが、官営の「八幡製鉄所」です。製鉄に必要な鉄鉱石を輸入する中国に近く、また石炭も周辺地域から多くとれることから、八幡村が選ばれたのです。八幡製鉄所は、日清戦争のあと、清から支払われた賠償金の一部を使って建設されました。1901(明治34)年に鉄鋼の生産を開始し、その後、長く日本の鉄鋼業、重工業の中心として発展しました。
栃木県の足尾銅山の工場跡。明治時代、ここで採掘、生産される銅は、近代化を進める上で欠かせないものでした。しかし、銅を精錬する際に出る物質「鉱毒」によって渡良瀬川(わたらせがわ)は汚染され、周囲の住民にも被害が出ました。足尾鉱毒事件です。産業の発展の陰で生まれた、日本で最初の公害問題です。このとき、衆議院議員田中正造は、公害をなくすよう、住民とともに政府に訴え続けました。足尾銅山は1973(昭和48)年に閉山しました。日本の近代産業は、このような問題を含みながら発展してきたのです。
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