日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
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人々を職業により区別する制度も確立されました。武士,町人,百姓と、人間扱いされないエタや非人と呼ばれる身分の区別です。武士は、社会を支配する身分で、苗字を名乗り、刀を持つことが許されていました。百姓とは、農業や漁業や林業に携わる人々で、町人とは、職人や商人のことです。江戸時代の終わりごろの人口の割合をみると、総人口およそ3200万のうち、85%が百姓でした。
江戸時代の一次産業(農業と林業と水産業などの生産業)では収穫量を増やすことに力が注がれました。収穫量が増えると、幕府や藩にとっては、米など多くの税を集めることができます。藩は新しく土地を開くことや特産物の振興を勧めました。17世紀初めに描かれた千葉県北東部の絵図には、真ん中に湖がありましたが、数年後には、水田に変わりました。こうした開発を「新田開発」といいます。
使われる道具も大きく進歩しました。土を深く耕すことができる「備中鍬(びっちゅうぐわ)」,簡単に稲からもみをとることができる「千歯扱(せんばこき)」,風を送ってもみ殻などを飛ばし、米ともみ殻を分ける「唐箕(とうみ)」などです。これらの道具により、作業の手間が大幅に短縮されました。
野菜などは商品として、人々が集まる町へと運ばれていきました。今の静岡や京都の名産のお茶,山梨のぶどう,和歌山のみかんなどが有名です。 これらの作物を「商品作物」といい、各地でお金による取引が行われるようになりました。日本各地で特産物の生産に力が注がれるようになりました。
江戸時代には漁業も大きな発達を見せます。漁に使われる網が改良され、魚がたくさん獲れるようになりました。今の千葉県九十九里浜の地曳網(じびきあみ)によるイワシ漁や、北海道の刺網(さしあみ)によるニシン漁などです。イワシやニシンは「干鰯(ほしか)」や「〆粕(しめかす)」といった肥料にも加工され、油かすとともに、「金肥(きんぴ)」と呼ばれ、農村での商品作物の生産に欠かせない肥料として普及しました。
しかし、領土の限られた島国での開拓では先住民との軋轢が生じます。
琉球王朝は14世紀以降、東アジアの中継貿易で栄えていましたが、1609年の薩摩藩による征服で幕藩体制に組み込まれました。琉球王の即位や徳川将軍の就任の際は使者を江戸に遣わす一方、明(のち清)への進貢と貿易も行っていましたので、中国と日本の両方に属する形は、清王朝が衰退するまで続きました。
北海道も本州の弥生時代の頃から、蝦夷地特有の歩みをしていました。黒竜江下流域の山丹人(さんたんじん)との貿易「山丹交易」や、清王朝への朝貢でアイヌ独自の文化圏を持っていました。しかし、1604年に江戸幕府が松前藩に北海道南部を支配させると、農民からの年貢米収入の無い松前藩は、蝦夷地のアイヌとの交易権を家臣に与える商場知行(あきないばちぎょう)制をとり、アイヌ人の生活は圧迫されました。
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