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【産業と交通と文化の発達】
幕府の支配体制が確立して戦がなくなり、身分や宗教の取り締まりによって安定した時代になりました。飢饉による一揆は起こりましたが、歴史的に見れば、約260年にわたり政権交代はありませんでした。経済的な余裕が生まれ、人々は娯楽や学問に時間を割くようになります。江戸幕府が開かれてからおよそ100年経った五代将軍徳川綱吉の頃、文化の中心は大坂や京都などの上方(かみがた)でした。元号にちなみ「元禄文化」と呼んでいます。
交通網が整備され、商品は遠くの町へ運ばれるようになりました。特に大坂を中心とする「上方」と「江戸」のあいだでは、人や物がたくさん行き交いました。
江戸幕府は江戸と全国を結ぶ道路の整備を行いました。なかでも「五街道」と呼ばれる、東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中は、幹線道路でした。これらの街道は大名の参勤交代などに使われ、街道沿いには宿場が設けられました。宿場は、大名の宿となる「本陣」や、家来や旅人が泊まる「旅籠屋(はたごや)」などを中心とした町で、大名の一行や旅人でにぎわいました。
身分の上下関係は厳しく分けられましたが、「天下の台所」といわれた大坂では、町人が力をつけ、武士などとともに元禄文化を担っていきました。
ただし、街道の要所に置かれた「関所」では、通行人に対して厳しい取り締まりが行われました。特に、人質として江戸に住まわされていた大名の妻や子どもが国元へ逃げ出さないか、あるいは鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれないか、「入鉄砲(いりでっぽう)・出女(でおんな)」が監視されました。また、「脇街道(わきかいどう)」と呼ばれる道もつくられ、全国の都市が道で結ばれていきました。
松尾芭蕉が“わび・さび・しおり”の閑寂な蕉風俳諧を確立した奥の細道(中ー国語)の旅ができたのもこの時期です。
人々は人形浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)などを楽しむようになりました。今で言うエンターテーメントの発達です。これらの脚本を書き、人々の心をつかんだのが、近松門左衛門です。武士の家に生まれた近松ですが、人形浄瑠璃の一座に加わり、語り手である太夫(たゆう)のもとで修業を積みます。33歳のとき、「時代物」とよばれる芝居『出世景清』が大ヒットします。源氏と平氏の戦いで、源頼朝に敗れた武士の物語です。近松は、自分の書いた脚本に「作者・近松門左衛門」と書きます。それまで記されることのなかった作者の名前を、初めて記したのです。人形浄瑠璃だけにとどまらず、歌舞伎の脚本も手がけるようになります。近松は、生涯でおよそ120の作品を世に出しました。
江戸時代の寺子屋(てらこや)の様子を描いた図には、“読み・書き・そろばん”などを習う町人の子どもの姿があります。先生は、武士や医者,僧侶などでした。寺子屋は、江戸や京都から次第に全国各地へ広がっていきました。読み書きそろばんの知識は、文化の広がりを後押ししました。江戸時代の文化を支えたのは、こうした庶民の力だったのです。
海上ルートも整いました。大坂の蔵前を描いた図にはたくさんの荷物が積まれています。これらを運ぶときに活躍したのが船です。年貢米は、各藩の蔵があった大坂や江戸へ送られました。今の山形を出発点に、佐渡,島根,山口,そして瀬戸内海を通って大坂へ向かいます。大坂を出た船は、紀伊半島をまわって江戸へ。これを「西廻り航路」といいます。一方、山形を出て東北地方から太平洋沿岸を通り江戸に入るルートが「東廻り航路」です。特に大坂と江戸のあいだには「菱垣廻船(ひがきかいせん)」や「樽(たる)廻船」など、多くの船が行き交いました。
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