日本語補習教材サイト by Chieko Sakamoto
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藤原氏の摂関政治や安徳天皇の祖父になった平清盛と同様に、源頼朝の妻の実家が執権(しっけん)という役職で鎌倉幕府の実権を握りますが、源氏の征夷大将軍が第三代で絶えると、朝廷の権力巻き返しが起こりました。承久の乱です。
御家人は、幕府軍と朝廷軍のどちらにつくかで迷っていました。このとき御家人を説得したのが、頼朝の妻の北条政子でした。「頼朝公のおかげでみなの地位も上がり、土地も増えました。その御恩は山よりも高く、海よりも深い。今こそ、その御恩に応えるとき!」という言葉に奮い立った御家人は一丸となり、朝廷軍を打ち破ったといわれます。政子は「尼将軍」と呼ばれています。
平安末期から鎌倉時代にかけて、武士による争いが繰り返された時代、争いを続ける武士や、飢饉(ききん)で苦しむ人々の心のよりどころとなる新しい仏教が誕生します。法然は「浄土宗」を開き、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えればだれでも極楽浄土に生まれ変われる、と説きました。
その弟子親鸞は法然の教えを一歩進め、「浄土真宗」を開きます。一遍が開いたのは「時宗」。阿弥陀仏に救われる喜びを踊りによって表す「踊り念仏」を通じて人々に教えを広めました。日蓮の「日蓮宗」は、法華経(ほけきょう)の題目「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」を唱えれば、人も国も救われると説きました。一方、座禅を組み、悟りを開く「禅宗」という仏教も生まれます。栄西の「臨済宗」。道元の「曹洞宗」です。このように、多くの僧がわかりやすく実行しやすい新しい仏教を開き、人々のあいだに広めたのです。
さて、13世紀にアジア大陸の西から東まで勢力を拡大したのがモンゴル帝国です。“ジンギスカン料理”や反町隆史のドラマ「蒼き狼」で耳にしたことがあるでしょう。南宋と北宋に分裂していた中国も、朝鮮半島の高麗王朝もこの北方民族に支配され、モンゴル帝国に隷属しました。鎌倉幕府は、交易を求める元からの使者を無視してきましたが、ついに1274年10月、元寇が起こりました。(内乱を“○○の変”と称するのに対して、海からの侵略を“○寇”といいます)元は900隻もの大軍で九州の博多に押し寄せました。初めて目の当たりにした「てつはう」という爆弾や“集団戦法”が鎌倉武士を苦しめました。
幕府の執権となっていた北条時宗は、元の2度目の攻撃に備えて守りを固めました。その一つが、現在も残っています。博多湾に面して造られた石の壁、石塁(せきるい)です。高さ2.5m、当時は長さが20kmもあり、海からの敵に備えました。
最初の攻撃から7年後、再び元が攻めてきました。しかしこのときも日本は、自然災害で元の上陸を防ぐことができました。2度にわたる元の攻撃から守られた日本には“神風”が吹いていると考えられるようになりました。
外国勢力を撃退した(?)執権・北条時宗。しかし、新たな土地を獲得したわけではなかったため、元と戦った御家人に「御恩」となる土地を十分に与えることができませんでした。御家人は幕府に不満を持つようになり、幕府の信頼は失われていきました。幕府の求心力が弱まるのを見た朝廷側は再び政権奪還をはかり、1333年、足利尊氏(あしかが たかうじ)らが、後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を倒します。
政治の舞台は鎌倉から京都に遷され、天皇中心の政治が始まりました。「建武の新政」です。しかしすぐに、後醍醐天皇による政治に多くの武士が不満を持つようになります。
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