★班員24名中、日赤の同級生が11名で、ほかは内地の各陸軍病院から選り抜きの上級生だった。
翌日、県知事婦人等の壮行会を受けて神戸駅から広島に向かい、広島で1週間をむなしく過ごした。
昭和18年3月12日:宇品からランチで病院船“瑞穂丸”に乗り込んだ。船倉には足の踏み場もないほど、十字の腕章を巻いた兵隊が乗っていた。夕闇の迫る頃、瑞穂丸は瀬戸内海を西へ向かって出航した。やがて五島列島が見えなくなった頃から波が荒れて船酔いする者がでてきた。夜は豆電球だけの蒸し暑い船倉で、昼は輸送指揮官の命令で縄ばしごを使っての避難訓練の1週間だった。
3月19日:委任統治領のパラオ島に上陸してすぐ南洋神社に詣(もう)でた。そこには内地と同じ袴(はかま)をはいた美しい巫女(みこ)さんがいて社殿が立派なのにおどろいた。日本からの移民の方たちの家には畳が敷かれ、飯台(はんだい)のそばには飯びつが置かれて、内地と同じ様子に不思議な懐かしさを覚えた。その夜はパラオの沖で乗組員一同、甲板(かんぱん:デッキ)に出て南方の紫の夜を楽しみながら演芸会に興じた。
パラオ港を出て二日ほどしたとき全員甲板に集合がかかった。やがて、おもむろに輸送指揮官が「あなた達はこの船でどんなところへ行くかと思っているであろう。シンガポールにあるいはセレベスにと思いをはせていることと思うが、実はそんな華やかな街に行くのではない。青い草原に羊が放し飼いにしてあって、赤い腰巻をした土人のいるラバウルという最前線に行くのだ。君たちは内地出港の際、一週間の広島滞在があったのを思い出して欲しい。このとき軍は、広島でこの救護班は解散させて欲しい、女の身で未開地の最前線派遣は何としても無理で、生命を受けあいかねるからという強い反対を出したところ、日赤本社より軍旗のはためくところ必ず赤十字旗あり、いまさら解散なんてとんでもない、という強い要望で出港となったのだ。だから大変なことだろうと思うが兵隊たちは赤道以南において炎熱と戦いながら君たちの手を一日も早くと待っている。どうか皆さん元気を出してあくまで自分の健康に気をつけてお国のためにつくして欲しい。」と、初めて行く先を告げられた。もちろん私たちは外地に派遣されることを強く希望していたので、これからの未開地での職責と生活に雄心をわかせた。
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