二つの祖国

鮫島等

太平洋の架け橋

  等さんの父親・長三郎さん(1877年生まれ)は鹿児島の出身。
1897年(明治30年)、ワシントン州での鉄道工事の作業員として渡米した。サンフランシスコの大地震で北カリフォルニアの経済が崩壊したのを機に、1910年、ロサンゼルスの北東、パサデナ市で小さなクリーニング店を開店した。
 2年後には同郷のつなさん(1894年生まれ)と結婚し、二男二女をもうける。
次男の等さんが生まれたのは二階建てのレンガづくりの小さな家だった。
 その後、パサデナ市の中心部に引越し、大型の洗濯機,プレス機も備えた。ただし、1913年に成立した外国人土地法により日系人の土地収得が認められず、店舗をかねた自宅はリースだった。
生活が苦しくないと言えばウソになるが、ママは子どもの食べ物に気を配ってくれたし、いつもきれいな身なりをさせてくれた。いつも「もったいない」と物を大切にしていたよ。

  長三郎さんとつなさんは高等小学校を卒業しただけだったが、等さんたちに苦労することの大切さを教えた。
 等さんは11歳から14歳までの4年間、加州毎日新聞を配達した。配達は午後5時。日曜日は朝5時。お得意さんからのクリスマスプレゼントが楽しみだったという。15歳になってからは八百屋の配達のアルバイトをし、空いている時間はクリーニング店で父親の仕事を手伝った。給料はすべて父親が取り上げた。債券を買い等さんら兄弟の学資用に貯めてくれていたのだ。アルバイトの給料は1年分の学資に相当したそうだ。

パパは「アメリカ人と対等にやっていくには学問をしなければいけない」といつも言っていたよ。親は我慢しても子どもを大学に行かせようと、朝早くから夜遅くまで働いていたんだ。僕たちは、日本語学校にも通わされた…。小さい頃は土曜クラスで、10歳から14歳は月曜と木曜日のアフタースクールにね。
剣道もしたよ。ジャパニーズの勉強は嫌だったけれど、おかげで今もこうして話ができる。ほんとうに、オカゲサマだよ。

  1941年12月7日の真珠湾奇襲が日系人のくらしを大きく変えた。

 当時、南カリフォルニア大学に通っていた等さんは自動車のラジオでAttack on Pearl Harborのことを聞いて、ドラマかと耳を疑うほど驚いた。

 太平洋戦争が始まると、日系人は日本軍のスパイになりかねないとの理由で、様々な規制を受けた。短波ラジオの没収,夜間外出禁止,公職追放…。アメリカ人の態度が明らかにとげとげしくなった。3月31日までの4ヶ月間に、暴行事件による日系人の被害は、記録に残るだけで、殺人=7件,強姦や発砲や殴打など=21件,強盗や家屋器物などの損傷破壊=8件に達した。

 日系アメリカ市民協会や軍隊などで“アメリカ市民としての国家への忠誠”を示す運動もおこったが信頼されなかった。また、「外出禁止令は市民の自由を奪う」という起訴は「公共の利益に反する場合は成立しない」と大陪審で却下された。

 日本語を話せない日系二世・三世でも流暢に話せる「しかたがない」という言葉はこの頃、耳に焼きついたのだろうか。

 そして、1942年の立退き通知。大学生になっていた等さんの一家も10日以内に荷物をまとめてアリゾナ州ヒラリバーの強制収容所に行くように命じられた。
白人の友だちがたくさんいたのに…、大学を去るときには誰も別れを言いに来なかった。友達とはいったいなんなのか…、不思議な気持ちになりましたよ。

  収容所へは汽車で運べるだけの荷物に限られていたので、日系人は多くの家財道具を二束三文で投売りするしかなかった。等さんの一家も短い日にちで洗濯機やプレス機,自動車も手放すしかなかった。

パパは無口な人でね…、『しかたがない』と、懸命に現状を受け入れようとしていた。子どもを大学にやろうと苦労してきたこれまでの努力はなんだったのか、疑問に思ったでしょうねぇ…。

 アリゾナ州ヒラ リバーの収容所(Gila River War Relocation Center)は砂漠の中のにわか作りのバラックで、夏は猛烈に暑く、冬は凍えるように寒い。
バラックもまだできあがっていなくてね…、ご不浄は長い溝がほってあるだけ。溝の先に水タンクがあって、ときどきザ〜っと流すだけ。ドアが無くて恥ずかしいからと言って、姉さんは便秘になったよ。パパたちがご婦人用のご不浄を区切ってドアをつけてあげたんだよ。アメリカで育った僕たちにとってプライバシーがないのはつらかった。
アメリカしか知らない僕たちとパパたちの心がなんだか、だんだん離れていくみたいで…つらかった。


 13000人以上がほうりこまれたこの収容所で等さんは小学5年生のクラスの教師として働き12ドルの月給をもらった。将来は見えないが、両親の期待にこたえて大学を卒業したいという気持ちを持ち続けた。

 1942年も末になると、戦況が米国に優位に推移していることが明白になり、米国本土への攻撃はありえない状況になってきた。米国政府は少しずつ日系人への規制を緩和し始めた。

 1943年2月、政府は敵性外国人として収容所に送った日系人に対して“国家への忠誠を問う”という矛盾した行為をとった。この17歳以上を対象に記入が義務付けられた出所許可申請書(忠誠登録)では、質問27と28が論争を引き起こした。

質問27:合衆国の戦闘任務に、命令されたいかなる場所においても服する意思があるか。

質問28:合衆国に無条件の忠節を誓い、外国/国内勢力のいずれを問わず、それらのあらゆる攻撃に対して忠実に合衆国を守り、また、日本国天皇またはその他の外国政府/勢力や団体への忠節ならびに服従を否認するか。

上記の2問に“No-No”と答えた者は分離されてツール レイク収容所に送られた。
“Yes-Yes”と答えた等さんは(調査対象者の84%の一人)カリフォルニアに戻ることはできなかったが、デンバー州コロラドのデンバー大学への編入が認められた。
 しかし、生活費や学費を稼ぐのは大変だった。

働きたくても日系人だと分かると断られるんだよ。やっと深夜の電車ターミナルの掃除の仕事にありついてね…。時間が無いので学校から仕事場までは電車で行ったけれど、帰りは歩いて戻った。安売りの袋入りのパンの切れ端を買って食べるんだけど、一週間も経つとカチカチで歯が立たなくなる。カチカチのパンは水につけて食べればいいんだよ。日系人の友だちとのルームシェアーは貧乏生活。二人とも仕事でクタクタ。疲れてホームワークをしているとついウトウト…。お互いにほっぺたをパッチンてね…。それでも、収容所にいるより勉強できることがうれしかったよ。

  1944年7月…寝る間も惜しんで働きながら通った大学を、あと5週間で卒業できるというとき…等さんに召集令状が届いた。入隊まで残された時間は10日間。

 「落第したら大学在学中の単位もだめになるぞ。」と言う学部長に頼んで繰り上げ試験を受けさせてもらい、あわただしく荷づくりをしてテキサス州の訓練施設に向かった。収容所の中の両親との手紙のやり取りは制限されていたので、等さんが卒業試験に合格したことを知ったのは数年後だった。 

親を二等級に扱って、敵の顔をしているからと僕たちでさえ差別するような国家に忠誠を誓うことには矛盾を感じたよ。

でもパパは「日本には大和魂があるから勝てないはずはない。」と言っただけで、僕がアメリカ軍に入ることに反対も賛成もしなかった。

 1944年8月、テキサスで軍事訓練を始めた等は442部隊への入隊を希望した。しかし日本語を話せるという履歴書の記載を目にした上官が、ミネソタ州フォートスネリングの陸軍日本語学校に行くように指示した。

陸軍日本語学校(Military Intelligence Service Language School:MISLS)は、戦後処理に備えて日本語のできる米国軍人を育成しようと、真珠湾奇襲前の1941年にサンフランシスコのプレシディオに開設されたもので、戦争開始後、ミネソタのキャンプサベージ(Camp Savage)に移設され、1942年5月、陸軍省直属となっていた。MISLSからは約6000人(内4500人が日系二世)が卒業した。彼らの功績はのちに「米国の秘密兵器として日本軍の暗号解読,押収文書の翻訳,捕虜の尋問を通して得た情報は、百万人の米兵の生命を救い、戦闘の終結を2年早めた」とマッカーサー元帥から評価された。

等さんのMISでのトレーニングは6ヶ月間,月曜から金曜,毎日8時間授業で夜は2時間の自習。教師は日系一世と帰米二世で、会話だけでなく日本の歴史や文化,仏教と日本政治,草書の読み書きまでもが短期間で厳しく指導された。日本の旧式の装備や戦況が手にとるようにわかった。

1945年8月、等さんはフィリピンのルソン島で日本兵捕虜の尋問に就いた。


1945年,MISにて

なにを質問しても、どなに質問しても…捕虜の水兵さんは固く口を閉ざしたままで、戦争が終わったことさえ認めようとしない。困ってしまって、ワラにもすがる思いで“♪♪あなたと呼べば〜、あなたと答える〜♪♪…”と、仏教青年会の芝居で聞き覚えていた歌謡曲を口ずさんでみたんだよ。すると水兵さんが涙ぐんで口を開き始めたんだ。
 そして僕がこの後、東京に赴任すると言ったら、東京の様子を懐かしそうに語ってくれたよ。僕はすでに東京空襲の戦況を知っていたけれど、故郷の美しさを語る彼に何も言えなかった。

 1945年10月9日、等さんは初めて両親の祖国の土を踏んだ。MISLSで戦況把握はしていたものの、両親が語っていた“うるわしい祖国そこく大和撫子やまとなでしこの国”の荒廃こうはい混迷こんめいした現状に胸を痛めた。

日系人通訳の宿舎は横浜の旧絹検査所にあって、食料はアメリカから持ち込んでいたから、その当時の日本の食生活とは雲泥の開きがあってね…。
ある日、寄宿舎の外のゴミ箱の横で、空き缶をスプーン代わりに残飯をすくって背中の赤ん坊に食べさせている母親の姿を見た。
『同じ人間なのに』って…(声が涙でかすれる)
それからは、ダイニングで「今日はおなかがすいてるから」と言って多めについでもらっては、ゴミ捨て場で待つ母と子に分けてあげるようにしたよ。でも…、限界があって…。
あの親子はどうなったのだろう…。


1945年,横浜にて

 しばらくして、横浜税関の建物を押収して設けられた第8軍指令本部の配属となり、B級戦争犯罪人の通訳にあたった。巣鴨刑務所に収容されている日本人将校や九州帝大での米兵生体解剖事件の関係者などと会う日々が続いた。
 休みの日には鹿児島に住む従姉妹たちやロサンゼルスの日本語学校の恩師を訪ね、日本の敗戦を痛感した。日本語学校の恩師から義理の妹の歌子さんを紹介されたのもこの頃だった。
先生のお宅にうかがいたくても、僕が行けば貧しい配給の中から食べ物を出してくださるのが申し訳なくてねぇ…。

1947年8月、二人は横浜にあった米国領事館に婚姻届を出した。披露宴も指輪もなかった。
 1948年11月、連合軍兵士としての日本駐留を終え、歌子さんと伴に帰国。役所に勤務して一人娘を育てあげた。
娘のリンダがドライブしていたときのこと…、パトカーに止められて警告の書類にサインを命じられたのですが、娘は自分に落ち度はないと毅然と抗議して署名を拒否しました。法廷で娘の主張が認められたのですが、、、


1947年,皇居にて
歌子さんと

それにしても、警察に抗議するなんて、我慢,義理,忍耐,義務を教えこまれた世代には考えられないことですよ。今の日本やアメリカは自分の意見や権利を主張できる国になりました。素晴らしいことですが、義務や忍耐を忘れるのはいけないね。

最近の日本人はair conditionerをエアコンとか、digital cameraをデジカメと言うのね。話していて何のことか分からなかったよ。

今の日本の人には日本語を大切にして欲しいね。そして、日本の文化や歴史のことをもっと勉強して欲しい。知らないことから誤解がうまれるからね。


2010年8月27日
全米日系人博物館にて

剣道や柔道などの日本的なアクティビティーで体と心を鍛え、日本文化や歴史をもっともっと勉強して、日本のことを誇りに思って欲しいよ。