等さんのMISでのトレーニングは6ヶ月間,月曜から金曜,毎日8時間授業で夜は2時間の自習。教師は日系一世と帰米二世で、会話だけでなく日本の歴史や文化,仏教と日本政治,草書の読み書きまでもが短期間で厳しく指導された。日本の旧式の装備や戦況が手にとるようにわかった。
1945年8月、等さんはフィリピンのルソン島で日本兵捕虜の尋問に就いた。
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1945年、MISにて
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なにを質問しても、どなに質問しても…捕虜の水兵さんは固く口を閉ざしたままで、戦争が終わったことさえ認めようとしない。困ってしまって、ワラにもすがる思いで“♪♪あなたと呼べば~、あなたと答える~♪♪…”と、仏教青年会の芝居で聞き覚えていた歌謡曲を口ずさんでみたんだよ。すると水兵さんが涙ぐんで口を開き始めたんだ。
そして僕がこの後、東京に赴任すると言ったら、東京の様子を懐かしそうに語ってくれたよ。僕はすでに東京空襲の戦況を知っていたけれど、故郷の美しさを語る彼に何も言えなかった。
1945年10月9日、初めて両親の祖国の土を踏んだ。。。MISLSで戦況把握はしていたものの、両親が語っていた“麗(うるわ)しい祖国、大和撫子(やまとなでしこ)の国”の荒廃(こうはい)し混迷(こんめい)した現状に胸が痛んだよ。
日系人通訳の宿舎は横浜の旧絹検査所にあって、食料はアメリカから持ち込んでいたから、その当時の日本の食生活とは雲泥(うんでい)の開きがあってね…。
ある日、寄宿舎の外のゴミ箱の横で、空き缶をスプーン代わりに残飯をすくって背中の赤ん坊に食べさせている母親の姿を見た。『同じ人間なのに』って…【等の声が涙でかすれる】
それからは、ダイニングで「今日はおなかがすいてるから」と言って多めについでもらっては、ゴミ捨て場で待つ母と子に分けてあげるようにしたよ。でも…、限界があって…。
あの親子はどうなったのだろう…。
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1945年,横浜にて
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しばらくして、横浜税関の建物を押収して設けられた第8軍指令本部の配属となり、B級戦争犯罪人の通訳にあたった。巣鴨刑務所に収容されている日本人将校や九州帝大での米兵生体解剖事件の関係者などと会う日々が続いた。
休みの日には鹿児島に住む従姉妹たちやロサンゼルスの日本語学校の恩師を訪ね、日本の敗戦を痛感した。日本語学校の恩師から義理の妹の歌子さんを紹介されたのもこの頃だった。
先生のお宅にうかがいたくても、僕が行けば貧しい配給の中から食べ物を出してくださるのが申し訳なくてねぇ…。
1947年8月、二人は横浜にあった米国領事館に婚姻届を出した。披露宴も指輪もなかった。
1948年11月、連合軍兵士としての日本駐留を終え、歌子さんと伴に帰国。役所に勤務して一人娘を育てあげた。
先日、娘のリンダがドライブしていたときのこと…、パトカーに止められて警告の書類にサインを命じられたのですが、娘は自分に落ち度はないと毅然と抗議して署名を拒否しました。法廷で娘の主張が認められたのですが、、、
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1947年、歌子さんと
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それにしても、警察に抗議するなんて、我慢,義理,忍耐,義務を教えこまれた昔の世代には考えられないことですよ。今の日本やアメリカは自分の意見や権利を主張できる国になりました。素晴らしいことですが、義務や忍耐を忘れるのはいけないね。
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