2006年11月26日号

日本に従軍した日系二世:小野正己さんの話


 ↑ 七つボタンの制服姿でお姉さんと記念撮影↑
(撮影日時と場所ははっきりしていません)

一旗上げたら(お金をもうけたら)日本へ帰ること前提に移民した父親の考えで、小野さんは12歳のときに姉と岡山に送られました。二重国籍だったので、鬼畜米英と教育された当時の日本人からいじめられたこともあります。
15歳のときに海軍予科練習生(特攻隊の卵)として戦争に召集され、松山へ。
広島のきのこ雲を呉で見ました。軍隊でアメリカ生まれだと言えば殺されると思い、国籍のことは誰にも話しませんでした。あの頃にはもう、ゼロ戦もなくなっていて…、人間魚雷の志願者を募ったんですよ。僕は志願しなかったけど、何十人も志願してその中から次男や三男坊主が選ばれましたよ。
後から、アメリカに残った家族はマンザナとツールレークの収容所に入れられていたことを聞きましたよ。真珠湾攻撃の次の日にFBIのエージェントが二人、家にやってきて「前の年に日本に行っているが、日本軍からどんな指示を受けているのか」と、お袋に詰問したそうです。

朝鮮戦争のとき、アメリカ軍に入り米国市民権を回復しました。
日本と米国の軍隊のちがいについて「日本軍は何が何でも絶対服従。上官から殴られないかいつもビクビクしていたよ。米軍ではそんな心配はなくて、食べ物が豊富なことにおどろいたね。」と小野さん。
最近の日本のドラマを見て「大和魂が感じられない」と憤慨しますが、「僕がいた頃の日本には何もなくて、今とは全然ちがうよ。多くの犠牲を出してしまったけれど、あの戦争に負けたから今の日本があるんだよね。もし生まれ変われるとすれば、今の日本に日本人として生まれたいよ」とも言われました。


↑1955年(22歳)

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