史跡、紫香楽宮跡から出土した万葉集の歌が書かれた木簡


滋賀県甲賀市で2008年5月14日、森園道子、撮影
再チェックで大発見「すぐ読めドキッと」

 「『阿佐可(あさか)』はすぐに読めた。瞬間的に万葉歌だと直感、ドキッとした。あの古今集のセット関係や、こりゃ、えらいこっちゃと…」

 大阪市立大大学院の栄原(さかえはら)永遠男(とわお)教授(日本古代史)は、その瞬間の興奮を今も忘れない。

 木簡学会会長である栄原教授は昨年12月1日、それまで習書や落書きと考えられていた木簡のなかには歌会で使われたものもあるとして、「歌木簡」という新しいジャンルを提唱した。紫香楽宮跡調査委員でもある栄原教授が、同遺跡から出土した木簡の再チェックを開始したのは、その直後だった。

 運命の瞬間が訪れたのは、1週間あまり後の12月10日。「難波津の歌」が書かれた木簡の形状を詳しく調べようと、裏返したときだった。念のため、赤外線でも見たが、間違いない。

 しかし、読めたのは一部で、まだ万葉歌と断定できなかった。そこで奈良文化財研究所が持つ、より性能が高い機械で解読、その結果、残りの4文字が判明した。そして、国文学者を交えた検討会議のなかで、「安積香山の歌」で間違いないとする見解に至った。

 栄原教授の定義に該当する「歌木簡」はこれまでに14点が出土。うち「難波津の歌」は9点ある。「歌の人気もあるが、調査者が難波津の歌の発見例を知っていたからこそ、これだけの数が見つかった。同じように今回の発見が、万葉歌木簡の次なる発見につながってほしい」

奈良時代に聖武天皇が造営した滋賀県甲賀市信楽町宮町の紫香楽宮(しがらきのみや)(742〜745)跡から平成9年に出土した木簡の両面に、それぞれ和歌が墨書され、うち1首が万葉歌だったことが分かり、同市教委が22日、発表した。4500首以上の歌を収録している『万葉集』だが、木簡に記された歌が見つかったのは初めて。木簡は『万葉集』の成立以前に書かれた生々しいドキュメント史料で、歌集成立の過程などを探る画期的な発見として注目を集めそうだ。

 木簡に記されていたのは、『万葉集』巻16に収録されている「安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる山の井の 浅き心を我が思はなくに」と、「難波津(なにわづ)の歌」として知られる「難波津に 咲くや木の花冬こもり 今を春べと咲くや木の花」の一部。いずれも漢字を仮名的に用いた万葉仮名で書かれている。

 2つの断片に分かれ、幅はいずれも2・2センチ、長さはそれぞれ14センチと7・9センチ。文字の大きさなどから、もともとは幅3センチ、長さ約60センチほどと推定できる。厚さは約1ミリ。「安積香山の歌」は7文字が、「難波津の歌」は13文字が残っていた。同市教委は、儀式や宴会で歌を読むときに使われたとみている。


 2首は10世紀初頭、紀貫之らが編纂(へんさん)した『古今和歌集』の「仮名序」で「歌の父母(ちちはは)」と紹介されているポピュラーな歌。『源氏物語』や『枕草子』などでも手習いの歌としてセットで登場する。今回の発見で、このセット関係が『古今和歌集』を150年さかのぼることになり、これまで謎だった2つの歌の結びつきについても議論が高まりそうだ。

 安積香山は福島県郡山市にある山で、万葉集の詞書(ことばがき)によると、この歌は東北に派遣された葛城王(かつらぎのおおきみ)(のちの橘諸兄(たちばなのもろえ))が国司の粗略な接待に気を悪くしたが、応対した采女(うねめ)がこの歌を詠み、機嫌を直したと伝えられている。

 「難波津の歌」は、仁徳天皇の治世の繁栄を願った歌とされる。万葉集には収められていないが、奈良文化財研究所によると、この歌が記された木簡は7世紀後半以降の30例あまり確認。古くから有名な歌だった。

 木簡が出土したのは、宮殿などの遺構が確認されている紫香楽宮中枢部の西側の脇を流れる基幹排水路跡。同じ個所から出土した年号のある木簡13点から、天平15(743)年秋から745年春にかけて棄てられたと推定できるという。

 現地説明会の代わりに、5月25日午後1時から、甲賀市信楽町長野の信楽中央公民館で、「万葉歌木簡記念講演会」が開かれる。

 ■ 万葉集 ■
 現存最古の歌集。全20巻からなり、仁徳天皇から759年までの和歌約4500首が収録。大伴家持や橘諸兄らが編集したとされる。雑歌(ぞうか)、相聞歌(そうもんか)、挽歌(ばんか)に大別される。素朴で力強い歌風が特徴で、文学的評価は高い。「巻1」から「巻15」までが、745年以降の数年間に成立。今回の木簡と同じ歌が収録された「巻16」と家持の日記がその後に増補され、782〜783年ごろに全20巻が成立したとする考えが有力。

 ■ 紫香楽宮 ■
 天平14(742)年、聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に造営した離宮。翌年ここで、大仏造立を発願した。745年に「新京」と呼ばれたが、同年に平城京に還都した。宮町地区で昭和58年から行われた発掘調査で、朝堂など中心施設が検出された。これまでに平城京に次ぐ約7000点以上の木簡が出土している。